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2018年8月11日 (土)

丹波毛利氏について

 宝治合戦後の毛利氏については、これまで毛利家文書に基づき述べられてきた単純化されたもの(所領は越後国南条と安芸国毛利庄、河内国加賀田郷のみ)とはかなり異なっていたことについてはすでに述べた。観応二年二月一〇日には足利義詮が久下貞重に丹波国河口庄内毛利掃部助跡を勲功の賞として与えている。当時は、尊氏・義詮派と直義派の間で合戦が続いており、義詮は直義派の掃部助の所領を闕所として味方の貞重に与えたのであろう。掃部助基浄の系図上の位置づけは不明である。
 この翌月に尊氏と直義の間で和睦が成立したが、それは直義派が優位な状況下で行われたため、義詮から貞重への毛利掃部助跡の給与は無効となったはずである。次いで、八月には尊氏が南朝に降伏して、直義派との戦闘が再開されると、直義は山名時氏等自派の守護大名を伴って北陸道へ逃れ、その後鎌倉に入ったが、戦闘は尊氏派が優位に立ち、翌観応三(文和元)年二月には尊氏が直義を殺害するに至った。
 一方、父時氏と異なり尊氏派であった山名師義が所領問題で京極道誉と対立し、八月には尊氏のもとを離れて伯耆国の父時氏と合流し、次いで出雲国や因幡国への軍事行動を展開し、これを制圧した。丹波国は尊氏派と時氏派の合戦の舞台となった。文和元年一〇月二五日には義詮が再び久下貞重に毛利掃部助基浄跡である河口庄に与え直している。一時は基浄が尊氏方に降参したことで、河口庄は基浄に返されたが、再び両派の対立が発生する中、基浄は山名時氏方となったと考えられる。その後丹波国では山名氏と幕府補任の丹波国守護仁木氏との間で対立が続いたが、貞治三年三月に時氏が上洛し幕府に合流した際に、丹波国守護は仁木氏から山名氏に交替しており、河口庄をめぐり久下氏は厳しい状況に置かれていたと想われる。  
 しかしその状況は時氏の死後、丹波国守護となった子の氏清が明徳の乱で敗死して没落したことで一変する。幕府は細川頼元を丹波国守護に補任し、その後、山名氏が丹波国守護となることはなかった。明徳の乱で山名時熈方として頼忠が討死し、その後はその子孫が山名氏家臣の首座を占めた垣屋氏も、本来は出雲土屋氏の一族で後醍醐天皇の隠岐脱出を助け、勲功の賞として得た丹波国宮田庄内垣屋を苗字の地としていたが、山名氏惣領の領国但馬を拠点として活動する。丹波毛利氏は明徳の乱で山名氏清方となり、丹波国内の所領を失ったと考えられる。

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