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2018年8月26日 (日)

中世石見国の新史料から4

 八号文書で永禄二年に来海内で松浦源左衛門が田地と屋敷地を与えられているのは永禄四年八月一日(一〇号)文書にある「先年山吹之城兵粮馳走」によるものであろう。永禄二年の時点では石見国にいたと思われ、永禄四年には義久がこれを安堵しているが、この時点では出雲国に移っていたと思われる。松浦氏に感状を与え、所領の安堵を行っていた温泉氏も同様の状況にあったと思われる。
 いずれにせよ様々な観点からの検討がなされ、且つ無年号文書については年次比定がなされなければならない。その意味で、一四号尼子氏奉行人連署奉書写について言及する。この文書には花押影が残されており、立原幸隆の花押が注目である。その花押は永禄二年までのもの(Ⅰ)と永禄四年以降のもの(Ⅱ)で明確に異なっている。永禄三年末に尼子晴久が死亡しており、それが変化の背景であろうか。
 一四号文書は年未詳三月一二日尼子氏奉行人連署奉書写であるが、立原幸隆の花押は永禄四年以降のⅡと異なっており、永禄三年以前のものである。牛尾幸清・立原幸隆・河副久盛という三人の組み合わせも、これと七号文書以外には確認されていない。七号は前述のように弘治三年九月二八日晴久袖判尼子氏奉行人連署奉書であるが、苗字と官職が名前の肩の部分に記されているのに対して、一四号は苗字のみの簡略タイプである。前者は実際に晴久まで上申した上で発給されたものだが、後者は奉行人レベルの判断で出されたものである。弘治二年七月の忍原の戦で尼子氏が毛利方を破ったため、一旦は毛利氏の圧力が弱まったが、七号のように弘治三年の春以来、毛利氏と福屋氏が温泉城を攻撃していたことがわかる。そうした状況の中出されたのが一四号文書であった。弘治三年に比定できる。次いで、正式な形で出されたのが七号文書である。一五号と一六号文書も同年のものであろう。とりあえずはここまで。

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