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2018年9月 1日 (土)

伴姓富永氏について

 石見国の伴氏について述べ、石見国在来の勢力であるとしたが、安濃郡波祢(羽根)氏と邑智郡出羽氏は伴姓富永氏だとする。波祢氏は戦国期の棟札により確認でき、出羽氏は萩閥の系図による。出羽氏は近江国から配流されたことが石見国への入部のきっかけとする。三河国における富永氏の活動も知られているが、三河国は鎌倉時代から足利氏の勢力が強く、富永氏は足利氏一族の吉良氏の家臣となっている。
 伴氏一族である都野氏の本領都野郷の地頭職は、都野氏が南朝方であったために幕府により没収され、吉良氏に与えられた。吉良氏はそれを東福寺に寄進したが、都野氏だけでなく、安濃郡波祢氏もこれに介入し、訴えられている。伴氏については不明な点が多いが、伴氏である都野氏の本領が没収され、それが伴姓富永氏をその勢力下に置く吉良氏領となり、吉良氏が東福寺に寄進したことに対して、伴姓富永氏の出身である波祢氏がこれに介入している。キーワードは伴氏なのである。
 西田氏は波祢氏の本拠地波祢と都野がともに水運の拠点であったためとしたが、水運の拠点は石見国にはいくらでもある中で、波祢氏があえて都野郷に介入したのはそれ以上の関係があったためであろう。前にも述べたが「水軍勢力」とか「水運の拠点」といった一般的表現には違和感を隠せない。
 内陸部である安芸国大朝庄地頭となった吉川氏は駿河国入江庄内吉川が本領であるが、入江庄内の武士は水運との関わりが強く、且つ梶原景時の討伐の勲功により、淡路国と播磨国内の景時領を恩賞として与えられた。駿河国は幕府成立時に武田氏の勢力圏であり、後に頼朝が支配した。そのため、駿河国武士の上には惣地頭として幕府の有力御家人がおり、吉川氏の勢力拡大には制約があったが、景時討伐が飛躍の契機となった。
 一方、景時時点の守護領とその後任である播磨国守護小山氏と淡路国守護佐々木氏の守護領の状況には変化が生じた。承久の乱までの石見国守護佐々木広綱領とその後任守護の所領との間にも同様の問題があるのではないか。淡路国ではたまたま京都大番役を勤仕するため御家人が上京していたために国御家人が京方となり所領を没収されたが、本領が駿河国入江庄にある東国御家人は大番役の対象外であったためか、所領を没収されておらず、逆に乱後に新たに恩賞として所領を与えられている。石見国内に所領を有した東国御家人の中で、守護とともに京方となった御家人は少なく、佐々木広綱跡が後任の守護と勲功をあげた東国御家人に分割して与えられたのではないか。
 石見国の伴氏が東国御家人の可能性があると考えさせられたのは、文永八年の大東庄内縁所(遠所)の地頭であった縁所五郎が、国御家人ではなく、鎌倉初期に所領を得て入部した相模国御家人土屋氏の一族であることを知ったためである。また、伴姓である都治氏の記録からも、それまでの和気氏領に鎌倉初期に東国御家人が入部した旨が記されている。都治氏とその惣領である河上氏も東国御家人である可能性が出てきたとせざるを得ない(伴姓富永氏の方が可能性は高く、区別すべきかも知れない)。

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