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2018年9月 1日 (土)

立原幸隆書状について

 松浦家文書一八号文書の花押が気になっていたが、よくみると立原幸隆の永禄四年以降のⅡ型の花押ではないか。出雲尼子史料集でその花押を確認すると、署名とともに花押が記されており、幸隆の隆の部分と花押の部分が一部重なっていることが多いが、松浦家文書のものは重なりがなく、写す際にそのようにしたのであろう。「隆」と「俊」の崩し字は花押と重なることが多い最後の部分を除けは似ている。この文書は立原幸隆書状としてよかろう。最初は「幸俊」の名から津森幸俊ヵと思い花押を確認するが、全く別物でありがっかりしたが、よくよく確認すると以上のことが判明した。
 松浦家文書一二号のみは、某が毛利氏のもとで警固に馳走した状況を報告している。永禄六年正月一八日の命令を受けてのものであり、それ以降に毛利氏のもとでの活動を報告したものである。案内者としての役割を期待されたもので、報告者は松浦氏の関係者である可能性が高い。永禄四年には松浦氏も出雲国にいたと述べたが、その経済的活動のため、主家である温泉氏とは異なり石見国に残ったか、松浦氏内部で富田城に籠城したものと迩摩郡に残ったものに分かれたと思われる。その意味では一三号文書年未詳二月二六日某景俊書状も注目される。宛所は松浦源左衞門ではなく、これのみ松浦内蔵丞である。
 一八号文書に戻ると、立原幸隆単独の書状は松浦家文書の残り方からして永禄四年のものであろう。前にも述べたが、幸隆が真鍋豊信と連署した米留印判状の花押はⅠのタイプであり、永禄三年以前のものであるが、これをとりあげた論文では一方では永禄五年と、もう一方では永禄四年のものだとされ、出雲尼子史料集では永禄四年とされた。有効な情報を読み取らない典型的な誤りである。

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