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2018年8月 3日 (金)

勲功の賞と苗字の地2

 系図によれば泰長は元弘三年閏二月に出雲国で自害し、その子高頼には「加悦太郎左衛門尉」との注記がある。泰長に「加悦」の注記をする系図一本もある。この苗字の地は丹後国加悦庄であろう。康正元年の丹後国諸庄郷保惣田数帳目録には加悦庄がみえ、田数一六三町八反二四〇歩、領主は実相院殿とある。実相院は天台宗の門跡であるが、二代将軍義詮の孫増詮が門跡となって以後、幕府との関係が強まっていた。これも反幕府方の所領が幕府領となり、幕府から実相院に寄進されたものであろう。父泰長が後醍醐のために命を落としたことで、その子高頼に大規模庄園加悦庄が恩賞として与えられたと思われる。
 康正元年の丹後国の所領には大石庄二一三町六反一五〇歩があり、半済により半分が幕府御料所、半分が京都の臨済宗寺院である常在光寺領となっている。これに対して名和氏系図には長年の父の兄弟に小次郎入道長村がおり、その子(長年の従兄弟)小次郎行村には「大石豊前権守」の注記がある。これに大石庄が徳治二年には執権金沢貞顕の子北条貞将領であることを踏まえると、行村が苗字の地としたのは丹後国大石庄とみてよかろう。
 土屋宗重の父宗行には系図に「土屋千原出雲権守」との注記がある。当初、「千原」が筒河保と同様に丹後国内にみえたのでこれを適当と考えたが、史料的裏付けがないので、但馬国北部で、岸田川の中・上流域を庄域とする二方庄(弘安八年の田数二五町九反半で国御家人が下司であった)内の千原が妥当であろう。二方庄はその後得宗領となり得宗被官安東高泰が代官として支配に当たっていた。岸田川の河口の両岸を庄域とするのが大庭庄(弘安八年の田数は七四町五反一一四歩)であり、そこには、名和長年の弟六郎行氏が苗字とした「三谷」(西岸)や新出の土屋・垣屋氏系図に一族の苗字の地としてみえる「福富」「和田」(東岸)が確認できる。勲功の程度で恩賞の規模にも違いがあろう。
 長年の弟長義の子長重には「大井太郎左衛門尉」との注記がある。播磨国土山庄は正安二年には得宗領で被官下山高盛が代官として支配に当たっていたが、その庄域は大井川と水尾川に挟まれた地域であった。この土山庄の全部ないしは一分が与えられたことにより「大井」と名乗ったと思われる。土山庄地頭職は建武三年に尊氏が播磨国広峯社神主に与えたが、神主の罪科により一四世紀末には祇園社執行に与えられた。
 同じく長年の弟弥五郎助高は元弘三年四月に死亡しているが、その子弥五郎高兼には「布施」「右京進・雅楽助」の注記がある。播磨国布施郷を与えられた可能性が高い。東側に隣接する桑原庄内には「竹万」がみえるが、長年の弟氏高には「竹万七郎入道」との注記がある。とりあえずはここまで。
(補足)佐倉歴博の庄園データベースではヒットしなかったが、応永十六年九月四日足利義持御判御教書により、赤松満則に、丹波国春日部庄内黒井村、播磨国作用庄内、五ヶ庄内、餝西餘部郷半分・神戸庄地頭職、伊川庄埴岡比条上下、多加庄等とならんで、播磨国竹万庄が頼則譲状に任せて安堵されている。現在の上郡町のJR上郡駅付近に比定できるが、この竹万庄が竹万氏高が与えられた所領であろう。応永二七年三月二〇日某院院領年貢・公事書上(尼崎市教育委員会所蔵文書、兵庫県史中世史料編九)には赤松氏からの寄進分として播磨国竹万庄栗原村(惣田数一四町二段二〇代一八歩)がみえる。安室川とその支流域が竹万庄で、栗原村は支流梨ヶ原川流域にある。歴博のデータベースでは安室庄としてみえた。また。大井氏は伯耆国八橋郡内大井下郷、三谷氏は伯耆国久保田庄内村三谷が苗字の地である可能性がある。いずれにせよ、勲功の地である。

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