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2018年8月28日 (火)

後醍醐天皇と楠木正成

 国文学者兵藤裕己氏著『後醍醐天皇』が刊行された。国文学者小川剛生氏による『足利義満』とともに、歴史学者の描くものとは異なる人物像が描かれている。
 後醍醐が登用して側近にした人物として戦前から有名なのは日野資朝と俊基である。同じ日野氏ではあるが、資朝は一二世紀半ばの日野氏当主資長の末裔で、代々の当主は公卿となっており、資朝の父俊光は権大納言に進んでいる。一方、俊基は資長の兄で、崇徳院の側近であったためか、保元の乱の直後に出家した資憲の末裔で、俊基の父種範が初めて公卿=刑部卿となった。俊基の方が早くから後醍醐に仕え、文保二年に後醍醐が即位すると蔵人に起用された。資朝の方は父俊光までは持明院統の廷臣であり、後醍醐が元亨元年に天皇親政を開始した際に側近に加えられたという。これにより俊光は資朝を義絶した。資憲の曾孫重子(修明門院)が後鳥羽の間に生んだのが順徳天皇で、後鳥羽とともに承久の乱の中心的存在であった。
  後醍醐の母忠子は産まれてすぐに父忠継が死亡したことにより、花山院師信の養女となり、後に後宇多の後宮に入った。師信の母は毛利季光の娘であるが、生まれてすぐに宝治合戦が起こったため、兄弟師雄とともに花山院家で育ち、師継との間に師信を生んだ。師信は父師継晩年の子で建治元年(一二七五)の生まれである。師信は毛利時親の従兄弟になるが、年齢的には長崎泰綱の娘亀谷局と時親の間に生まれた貞親や親元と同世代と思われる。『河内長野市史』をみても確証となる史料は残っていないようであるが、楠木正成に大江家伝来の軍学を講義した毛利修理亮とは時親ではなく、修理次郎を子に持つ親元であったと思われる。系図には四郎としか記さないが、親元が修理亮であったがために、その子が修理次郎であった。
 楠木氏についても「楠木」「楠」の両説があり、兵藤氏は後者を採用されている。その初見史料が永仁三年(一二九五)の楠河内入道であるが、これ以前に駿河国入江庄楠木村から北条氏の代官として河内国に入部していた。一方、河内国加賀田郷を領地とする毛利修理亮の母は入江庄内で楠木村と境を接する長崎郷を苗字の地とする長崎氏の出身であった。
 師信の子師賢は嘉元元年(一三〇二)の生まれで、元弘の変では後醍醐の側近として活躍したが、捕らえられて配流先の下総国で死亡している。楠木正成の生年は不明だが、永仁年間に比定されている。師信が同世代である親元を知っており、そのもとで学んでいた楠木正成の存在を知っていたのではないか。そして師賢を通して、後醍醐天皇と楠木正成が結びつくのである。両者が結びつく有力なルートであったことは確実である。

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