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2018年8月26日 (日)

中世石見国の新史料から2

 次に昨日届いた『島根史学会会報』五六号では歴博所蔵「松浦家文書」の紹介と翻刻が目次謙一氏により行われている。第一印象は、鋳物師山根氏の文書と共通する点が多いことである。農業というよりも流通に関わる権益を持った家である。以下ではこの翻刻の号数を使用。
 山根家文書については、市山山根文書は知られていたが、同族ではあるが文書は異なる川本山根文書の影写本と謄写本が東大史料編纂所に保管されていた。論者が偶然検索していてヒットし、その存在を紹介し、井上寛司氏作成の中世石見国関係史料目録にも掲載された。文書の所蔵者志賀槙太郎氏については古文書収集家という程度しか知らなかったが、昭和の初めには東大文学部古文書課勤務であったと「米沢前田慶次の会」のHPに記されていた。氏の所蔵した近世文書には昭和九年には米沢郷土館の所蔵となったものがあるとも記されている。
 山根家文書に戻ると(市山と川本のものを併せてみる)、鋳物師山根氏は松浦氏と同様、小笠原・温泉氏という有力国人領主のもとで活動する存在である。当初は両者とも小笠原氏からの発給文書のみであったが、大内氏の出雲富田城攻敗退後、温泉氏関係者の発給文書が登場する。天文一二年一二月一三日定永書下(山根善右衛門宛)であり、二号文書天文一三年八月一七日の某実名書出書(松浦源左衞門宛)である。某の花押影をみると、隆長の花押と共通性がみられ、温泉氏関係者の発給文書ではないか。
 次いで天文二〇年四月二九日に温泉信濃守隆長書下と温泉氏(大内氏?)の家臣である片山・横路氏の連署安堵状が山根氏に対して出され、松浦氏に対しても三号文書天文二〇年五月一二日の温泉隆長書下が残っている。天文二〇年の尼子氏は美作方面へ軍事活動を展開しており、その分石見国への影響力が弱まり(天文一八年には小笠原氏が元就の子元春による吉川家相続を祝っている。大内氏方の温泉氏による山根・松浦氏への影響力が強まったのではないか。ところがこの年の八月末に陶隆房(晴賢)が挙兵し、義隆は九月一日に自害に追い込まれている。
 尼子氏にとっては好機到来であるが、尼子氏の東部方面遠征も成果を上げてはいない。幕府による天文二一年四月の八ヶ国守護補任も単なる利害の一致によるセレモニーでしかなく、影響は殆ど無かった。大社の商人坪内氏を備後に派遣して備後国江田氏を現形させたが、これも失敗に終わった。
 石見国人は義隆死亡後、陶晴賢と結ぶか、毛利元就と結ぶかの選択を迫られていた。佐波・小笠原・温泉氏は陶氏と結んだが、福屋氏は毛利氏ないしは尼子氏と結ぶ動きを示した。いずれにせよ反陶氏である。そうした中、天文二三年一一月の尼子晴久による新宮党討滅事件が発生し、福屋氏は毛利氏と結ぶことを決定した。次いで、翌天文二四年一〇月一日には厳島合戦が行われ、毛利元就が陶晴賢を破った。

 

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