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2018年8月26日 (日)

中世石見国の新史料から1

 石見銀山遺跡の研究が進む中、石見国の中世文書の原本ないしは良質の写しの発見が相次いでいる。人口流出の中、保管されてきた古文書が売却され、古書店の目録に掲載されるというケースもみられる。
 『世界遺産 石見銀山遺跡の調査研究8』には伊藤大貴氏「史料紹介 熊谷家文書所収の石田主税助宛中世史料写について」が掲載されている。熊谷家は大森町の有力町人で、その屋敷が文化財として保管され、文書の調査も続けられている。五通はすべて毛利氏が内田主税助に対し、波積郷並びに温泉、温泉津において権益を与えたものである。先に古代出雲歴史博物館所蔵の石見石田家文書6点が紹介されたが、当ブログでも「石田主税助について」と題して、郷原家文書に残る石田家文書の目録と石田氏の系図について紹介した(県立図書館所蔵謄写本)。そこでは一二通の中世文書が記されており、今回の五通も含まれている。
 郷原家文書は、石田友左衞門が慶応三年正月二九日に求めに応じて大森本陣に提出したものの写であり、今回の熊谷家文書の写の原本となるものが幕末時点で石田家に歴博所蔵のものと一括して保管されていたことは明らかであるが、県の担当者では郷原家文書を未確認だったようである。当ブログでこの記事をアップしたのは二〇一一年一月六日のことであった。歴博所蔵の石田家文書については、二〇〇九年に目次謙一氏が、二〇一〇年には本多博之氏が報告しているが、その後、関係する情報収集が十分に行われなかったことになる。
 今回の文書で明確になったのは、永禄五年七月の時点で、毛利氏は石田氏に直接文書を発給していたことである。郷原家に残されている系図については石田主税助が安芸国から石見国に入部したとされる点について信憑性は低いことを前のブログで述べたが、既知の文書の中に気になる二点があった。
 それは天文二三年に比定できる九月一八日毛利元就書状であり、厳島神社関係者である棚守左近将監に対して石見国の状況を伝えている。すなわち、毛利氏と結ぶ福屋氏が江要害を請取り、陶方として守ってきた杉治部大輔は要害を福屋氏に渡して周防に下ったとして、石州口の状況は大いに戦果が上がり本望であるとしているが、詳細は「石六」に申したとしている。毛利氏と棚守氏の間の連絡に石田六郎左衞門尉が従事している(関係文書は天文九年以降、多数見られる。また、大内氏奉行人書状にもみえる)。年月日未詳毛利隆元書状には、隆元が宮島大本御湯立の際に鬮を引かせるために使者春軄を目的を知らせずに棚守のもとに派遣し、夜中に二人で鬮を引かせることを述べている。この春軄が石田六郎左衞門尉ではないか。そうすると、安芸国の石田氏が石見国へ入部したとの系図の記載もあながち否定できなくなる。
 幕末の時点で石田家文書の中世史料は一二点あった。その後、相続か何かで二つのグループに分かれたと思われるが、文禄三年二月二八日今井越中・有松理助連署田畑坪付のみが、石田氏の所領を考える上で貴重なものであるが、ぱっとみたところでは毛利氏との関係がうかがわれないため、写されなかったのであろうか。

 

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