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2018年8月26日 (日)

中世石見国の新史料から3

 この時期の山根家文書と松浦家文書の状況には共通する点と異なる点がある。山根家文書には弘治二年六月八日某袖判小笠原長秋書状(山根隠岐守宛)が残り、松浦家文書には弘治二年と三年には温泉氏からの感状と給分安堵状が四号から六号文書の三通みられるとともに、弘治三年九月二八日晴久袖判尼子氏奉行人連署奉書が残っている。この時期、山根氏に対する尼子氏発給文書は確認できないが、小笠原氏に対しては度々出されている。陶氏方であった小笠原氏と温泉氏はそれぞれ毛利方と対抗するために、尼子氏と結ばざるを得なかったのだろう。その結果、小笠原氏一族や温泉氏の家臣である松浦氏に対しても尼子氏から文書が発給されるようになった。当時の状況を知る貴重な史料である。
 弘治二年七月には石見国に出兵した尼子晴久軍が忍原の戦で毛利方を破り、佐波氏や福屋氏の攻撃を受けていた小笠原氏はピンチを脱することができたが、温泉氏も同様の状況にあった可能性が高い。天文二三年九月には福屋氏が江要害に進出していたが、この時点では、福屋氏が尼子方・毛利方のどちらと結ぶかは微妙であったが、一一月の新宮党討滅により完全に毛利氏方を選択している。
 弘治三年四月に大内義長を自害に追い込み防長占領が達成されると、毛利氏による本格的な石見国侵攻が開始され、永禄二年六月には小笠原氏の居城温湯城は再び包囲された。同年四月の時点で、福屋氏から毛利氏出兵の情報がもたらされ、晴久が永禄二年七月にも石見国出兵を行ったが、今回は江川の渡河を阻まれて小笠原氏の救援に失敗し、七月二八日には温泉津に退いていたことがわかる。まさに、温泉氏の所領であった。次いで九月二七日には大田まで退き、その後一〇月二四日には伊弉冉・伊弉諾社に帰国の社参を行っている。
 これにより八月末に小笠原氏は毛利氏に降伏したが、晴久の温泉津退陣は温泉氏にも四面楚歌的状況をもたらしたはずである。その結果、温泉氏は一旦石見国を出、出雲国内で尼子氏から所領を与えられた。

 

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