koewokiku(HPへ)

« 異なる方向から考えてみる2 | トップページ | 異なる方向から考えてみる4 »

2018年8月25日 (土)

異なる方向から考えてみる3

 但馬国というのは、伯耆国船上山から上洛する途中地域であり、山陰道の因幡・但馬・丹後・丹波と山陽道の播磨国の掌握が急がれたわけで、馬にニンジンではないが、関係者に一層の活躍を期待して、それらの地域の所領を恩賞として与えたのであろう。ただし、いいことのみではなく、それらの地域の国人で、北条氏跡からの所領回復(本領安堵)を期待していた人からすれば、とんでもないことで、その人々は動乱時には室町幕府方となった可能性は大である。
 具体例についてはすでに述べたので繰り返さないが、一次史料にはほとんどが「伯耆守長年」とあり、ごくまれに寄進状には源朝臣と署名している。「名和」についても、後醍醐から恩賞として名和庄を与えられたので、それを苗字にしたのではないか。ただし、名和庄の実態は範囲を含めて全く史料がなく不明である。『太平記』『梅松論』『増鏡』には隠岐から直接名和に着いたように記されるが、事実ではなかろう。とくに『梅松論』には「奈和庄野津郷」に着いたとあるが、野津郷は現在の琴浦町内の地で、ここまで名和庄に含まれていたとはありえない話である。『増鏡』と『関城書裏書』には伯耆国稲津浦に着いたとあるが、これも名和庄内である可能性は低い。もっとも詳細な『古本伯耆巻』と『舟上記』には、当初、追っ手の清高の船が美保関に入ったとの情報もあり、加賀庄内野波に入ったが、ここで清高軍を防ぐのは無理だとして、西へ進み杵築に着いて、塩冶高貞の協力を依頼するが断られ、杵築社神人の追求を受けそうになって東へ進み、名和の五里東の片見(方見)まで行ってしまい、そこから西へ戻って上陸した大坂から名和氏に連絡して、名和氏の迎えを得たとしている。
 戦前に平泉澄氏(東大教授でドイツと比較して日本中世史を論じていたが、ある時点を境に皇国史観の旗手となり、東大国史学研究室には神棚が置かれ、関係者には入室の際に礼をすることが求められた)が発掘した『古本伯耆巻』には古い情報が残されているが、その一方で、名和氏系図と『舟上記』に登場する長年の弟で出雲国で自害した泰長についてはまったく触れていない。史料を残した人々が写した際に、不都合な情報、自分たちには関係しないと思われた情報が削除されたと思われる。個々の情報について他の史料と比較・検討しつつ利用していなかければならない。

« 異なる方向から考えてみる2 | トップページ | 異なる方向から考えてみる4 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 異なる方向から考えてみる3:

« 異なる方向から考えてみる2 | トップページ | 異なる方向から考えてみる4 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ