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2018年8月15日 (水)

加賀庄地頭による年貢抑留の背景

 暦応四年一一月二七日足利直義裁許状によると、加賀庄領家水無瀬三位家雑掌が、加賀庄内柏尾村地頭鹿園寺治部次郎による年貢抑留を訴えた事に対して建武四年と暦応元年の年貢を結解を遂げ、先例に任せて糺返すべしとの裁許が示されている。
 暦応二年三月一四日の時点では地頭に対して召文を遣わした上で、五番引付に移して当事者間の問答が行われる予定であったが、地頭は召文に応じなかった。そこで暦応四年三月一四日に朝山景連を通じて重ねて地頭の出頭を求めたが、地頭は請文の提出に応じなかった。そのため、被告不在のまま判決が下された。当然守護・守護代を通じて強制力が行使されるはずである。ところが、この年の出雲国守護については、三月の時点で謀叛の嫌疑を受けた塩冶高貞が都を出奔し、幕府が追討命令を出していた。その中で、出雲国衙在庁官人の筆頭であり、備後国司を退任して出雲国に帰国していた朝山氏惣領に守護権限の行使が委ねられた。その結末は不明であるが、この抑留の背景には動乱による地頭の交替があったと思われる。守護についても塩冶高貞追討の勲功により伯耆国守護山名時氏が補任されたが、康永二年には京極導誉に交代している。
 鎌倉期の加賀庄地頭は土屋氏惣領であったが、現実にはその関係者が地頭代として入部していたと思われる。それが土屋氏一族が後醍醐の隠岐脱出と船上山の戦いに協力したことで、動乱で成立した室町幕府が土屋氏領を闕所地として建武三年中に幕府方国人に与えた可能性が高い。柏尾村には楯縫郡の鹿園寺治部次郎が新地頭に補任され、入部したが、南朝方との合戦のためか、あるいは在地の掌握が不十分だったのか、はたまた年貢納入の意思がなかったのか、建武四年に続いて暦応元年の年貢も抑留されたため、領家雑掌が訴えたと思われる。
 やはり建武三年に補任されたと思われる加賀庄内大加賀村一分地頭空仙も、建武三年以来年貢抑留が続き、雑掌が幕府に訴えた。貞和二年三月と四月には出雲国守護京極道誉・守護代吉田厳覚を通じて訴状を地頭側に渡して、催促を加えたところ、空仙側が懈怠無く年貢の沙汰を行うことを約束したため、幕府は建武四年以降の年貢については結解を遂げ、未進があれば究済するよう、守護道誉に命じている。空仙の出自については史料を欠き不明であるが、土屋氏一族領が幕府から闕所とされ、新たに与えられた人物であった。以上、加賀庄内地頭による年貢抑留・未進事件の背景について述べた。

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