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2018年8月25日 (土)

異なる方向から考えてみる1

 三ヶ月ほど前に、名和氏について『鳥取県史古代中世史料編』に基づき考えたが、何も確実な資料がないことに気づかされ、落胆した。きっかけは毛利氏と楠木氏の関係から、楠木正成に関する最新の研究成果を確認したことであた。それが、土屋垣屋系図、名和系図同一族系図などの存在を教示いただいたことで、異なる方向から考えざるをえなくなった。
 文永八年杵築大社三月会当役結番帳の「北野末社」について所在地を検討していた。決め手に欠けていたが、北野姓(苗字)が島根町大芦(大葦)に集中していることから再検討した。『雲陽誌』の中でどこに天神があるかを調べ、地図上に落としたものをHP「資料の声を聴く」の表紙に使っている。最初に作成した段階では、大葦の天神は中世に遡るものには入れてなかったが、戦前に県寺社係が寺社から報告させた資料から、大葦の天神には戦国期の宝物があることから、大葦が北野末社であると確認した。結番帳の記載順序からも問題はない。
 大葦の北野天神への寄進時期は、蓮華王院領加賀庄の成立に先行したはずである。そうでなければ持田をも含む広大な領域の加賀庄に含まれたであろう。その意味では、揖屋社が成勝寺領として成立した後に、その周囲を含む地域が下賀茂(鴨)神社に寄進され意東庄が成立したのと同じである。これに続いて意東庄に隣接する安来郷が、神社の要請を受けた頼朝により寄進された。これに対して大原郡福田庄(加茂庄)は上賀茂神社領である。
 一方、大葦説の問題点も出てきた。正平一〇年時点で大葦氏が山名氏の丹後国代官を務めていたことと、応安五年に山名師義が、その後山名氏領国の中心となる但馬守護に幕府から初めて正式に補任された際に、守護代として大葦入道が下向していた。この点を普通に考えると、土屋氏一族が鎌倉初期から大葦の地頭であったため大葦氏を名乗ったことになるのである。北野末社の文永八年の地頭は東国御家人と思われる香木氏である。南北朝期に土屋氏が大葦を得た場合、正平年間にすでに大葦氏を名乗っている可能性は低い。また山名氏の代官に起用されたのは丹後国内で一定の勢力を有していないとありえないことである。丹後国の代官としての実績を山名氏惣領師義に評価され、新領国但馬の守護代に起用されたはずである。

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