koewokiku(HPへ)

« 2018年7月 | トップページ | 2018年9月 »

2018年8月

2018年8月29日 (水)

囲碁界の近況

 最近の囲碁界の話題としては、台湾出身の許家元七段が棋聖位を井山九段から奪取したことがある。元々期待の若手ではあったが、一力遼八段の影に隠れていた。それが、AIを利用した検討で急速に力量がアップしたとのこと。今年の前半の成績は国内では無敗という状況で、挑戦手合いも三戦全勝であった。中国乙級リーグ(甲級に次ぐ二番目のリーグ)では二〇一七年の一六チーム中一一位残留に続き二〇一八年も参加した。結果は六位と上昇したが、甲級昇級の三位以内には入れなかった。許七段(当時)は八戦中五勝三敗と勝ち越してはいるが、その他を含めて国際棋戦ではまだ十分な結果とはなっていない。天元戦では決勝に進出し、山下九段と挑戦者決定戦を行うようだが(山下が勝利)、七月の棋聖戦Sリーグでは山下九段に敗れ、二勝一敗となった。名人戦は全勝で挑戦者となった張九段も棋聖戦リーグでは4戦全敗で陥落必死であり、復調気味ではあるが、全盛期とは違うようである。一方、井山名人は不調が続いていたが、最近復調中とも言われる。高尾紳路九段は名人失冠後のリーグ戦で陥落したが、これは史上初のこと。本人はブログで自戦のポイントを解説しているが、ほとんど紙一重(両方ともにミスが出る)で勝敗が決まっている。高尾九段は棋聖戦リーグは2勝2敗である。
 許七段は碁聖獲得で八段に昇段したが、その後の国内棋戦では黒星もついている。本因坊最終予選の1組準決勝では波根九段に破れ、これを観戦していた日本棋院中部本院の若手棋士が感動したとのコメントを寄せていた。王座戦トーナメントでは準決勝で本木八段に半目負となり、挑戦者決定戦は村川八段を破った一力八段との争いとなった。昨年一八才の六浦三段が高尾名人を破って優勝した阿含桐山坏は今年のベスト4が二四才、二三才、二一才、一八才の四人の棋士となったが、一力・芝野の若い二人の決勝戦となった。
昨年の井山氏への挑戦手合で全敗した一力八段も今年前半は不調が続いていたが、やや復調傾向にあるようだ。
 一方、新人王戦では一七才になったばかりの広瀬優一二段が決勝進出。同年齢一六才の関航太郎二段を四回戦で破った二三才の大西研也三段との決勝。これまた同級で一六才の上野女流棋聖は参加していない。NHK坏では女流で唯一初戦突破し、二回戦はシードの許八段と。関二段はジュニアの国際棋戦では唯一の優勝経験者。一力八段(優勝は現在の河九段)と、関西棋院の故長谷川広六段が準優勝経験者。長谷川六段は島根県江津市出身で、それこそ、本因坊道策、岸本左一郎に次ぐ石見出身棋士として将来を嘱望されたが、二一才で火災のため死亡。直前には最年少で六段に昇段したばかりだった。原因は不明だが、思い悩む様子がみられたとされる。広瀬、関、上野氏はともに藤沢秀行の子藤沢一就八段の門下である。昨年、早碁の竜星戦で芝野三段が優勝し、中国竜星で中国ランキング1位の河九段に勝利して話題となったが、今年は芝野八段は一六名によるトーナメントには進出していない。Aブロックのリーグ戦で鈴木七段と鶴田四段が芝野八段を抑えて進出している。1回戦が進行中であるが、藤沢女流名人が同じ藤沢秀行門下の兄弟子高尾九段に勝利している。今年は国際棋戦でも中国の若手有力男子棋士に勝利していた。
 以上のように囲碁界は若手の台頭が著しい。将棋の藤井七段にとっての最大の課題は、ライバルとなる若手棋士がどれだけ台頭するかであろう。囲碁の井山六冠の場合も、同世代でトップ級となったのは、関西棋院の村川八段ぐらいで、同世代のライバルに欠けていた。

八月末の近況から

 実は自分の書いた原稿が、投稿記事の年月の確認方法が最近になってようやくわかり、過去の関係記事の閲覧が容易になった。書いた本人がそうなので、閲覧する方にはさらに難しかろう。一〇月でブログ開設一〇年となるので、今度こそ更新は最小限とし、論文集の原稿の完成と、ブログとHPの利用の改善(自分のためでもある。同じテーマについて新たな分析結果が出る度に記事をアップしているため)を中心としたい。当初はすべてHPに掲載していたが、途中から中世史のみに限定したため、その他のテーマの記事の保存についても、HP上で改善したい。問題なのは現在のメガエッグ上のHPのスペースが限られており、5年契約終了時に検討したい。望ましいのはHP専用のサーバーを借用することである。理想的には、文書目録と文書そのもの表示が連動できるようにしたいが、時間に限りがあるので、一般的には閲覧が困難なものを優先し、大日本古文書、大日本史料、平安遺文・鎌倉遺文・南北朝遺文に掲載されているものはその当該ページと若干のコメント(年次比定、人名比定が誤っていることがあるため)を表示できればと思う。
 現在はエクセルのリストから古文書文書ファイル(PDF)にリンクを貼れば良いようにも思うが、以前から一度は活用したいと思っていたデータベースソフト桐はなお健在である。桐を研究したジャストシステムの五郎や新日鉄のデータベースプロを入門レベルで使ったことはあるが、いつのまにかソフトが消滅した。アクセスについても一度は蔵書リストを作る形で学んだが、身につくまでには至っていない。
 現在のメガエッグは最近一度サーバーがつながらなくなり混乱したが(メガエッグそのものの問題で、問い合わせが殺到し、電話もつながらなかった。半日後に復旧)、それ以外ではまずまずである。かかって来た電話に乗せられる形で五年契約となったのは反省点ではあるが、料金比較はしていないが、とりあえず追加料金なく、5つのメールアドレス、五台までのウィイルスソフト(マカフィー)が使え、オプションのHPスペースの追加も低価格(ただし、スペースは最小限)であった。ブログについては、ニフティのメール会員(月額二〇〇円台)を残せばそのまま使えている。ただし、200M離れた実家での使用のため、据え置き型のものをニフティで契約している。二年契約が来年三月で終了するので、性能のアップにもよるが、地元のケーブルテレビとの契約に変更する予定である。ルーターを設置すれば、家の中では無線でも有線でも使える。メガエッグは2020年1月に5年契約が終了する時点で、サーバーと併せて再検討。ニフティもサーバーの利用も含めると有力候補である。一時、ニフティの存続が危ぶまれたこともあって、あわててメガエッグに変えてしまったというのが実情であるが、一応存続している。

活碁新評の現代版出版2

 『活碁新評』のあとがきにあるように父の死後、いかにしてその想いを実現しようか悩んだ末に、専門家向ではなく、初心者に向けた本の出版を思い立ち、当時、国文学者としては最も著名な大坂の篠崎小竹に推薦文をもらって出版した。塾頭とされる嘉永五年~七年は石見国大森から期間を限っての、帰京後三度目の上京である。
 囲碁史分野の投稿は、昨年九月五日「囲碁将棋界の近況から5」以来一年ぶりである。その前となると、山口県文書館に所蔵されている儒者の日記に左一郎と因碩の対局に関する記事があることを知って「因碩と左一郎」を投稿した二〇一四年一月である。二〇〇九年一二月には囲碁番付に関して述べているが、その後、県立図書館で出雲国の囲碁番付が所蔵されていることを知り、二〇一〇年末に写真撮影まではしたが、その後の作業は途中でストップしている。そろそろ囲碁の棋力をアップして、『活碁新評』が活用できるようになりたいと思う。
 当時は初心者向であったが、現在でいうならば有段者クラス向ではないか。大学生の頃は、藤原秀行氏が五〇手までなら日本一といったように、五〇手までなら初段以上のレベルとなったが、五〇手を過ぎると急激に棋力が低下した。序盤の打ち方は秀行氏の本で十分理解でき、「華麗」な打ち回しができたが、現在は本を読んでもなかなかそのようにはできない。ここ最近はソフトも強くなり、天頂の囲碁2の時点では、まったありなら最強モードでも勝利することもできたが、一年半ほど前に購入した銀星囲碁17(最新版は18、ネットで検索してみると、開発元は北朝鮮の会社であったが、一〇年以上前に契約を解消し、現在のものは無関係とのこと)にはどうやってかなわず、自然にソフトとの対局もしなくなったというのが現状で、昨日ひさし振りに打ったが、結果は一目瞭然である。ネット上に左一郎の棋譜もアップされているが、自分の所持する72局分がすべて掲載されているかについても確認が必要である。

活碁新評の現代版出版1

 日本棋院のサイトをみると、八月二八日付で『名著再び 活碁新評』が九月三日に発売されるとの予告記事が掲載された。丁度名人戦挑戦手合第一局が開始された日である。原典は現在から約一七〇年前の嘉永元年(一八四八)に出版され、そのあとがきを本ブログでも掲載したことがある。戦後になって日本棋院理事長をつとめた長谷川章八段による解説を付した『活碁新評』(上下二冊)が出版され、第二版からは副題であった「筋と形」が書名となり、著者名も岸本左一郎から長谷川章に変更された。
 論者は第一版の上をオークションで入手し、その後、京都府立図書館で下も確認。その後のオークションで、第二版の上下を入手。伊豆の囲碁史研究家の方から原本のコピーをいただいた。さらにはその後、千葉県成田市の成田山新勝寺図書館で、著名な囲碁史料収集家荒木直躬氏が寄贈された資料を閲覧し、写真撮影している。そこには『活碁新評』が2種類3冊、『常用妙手』が1冊保存されていた。そのあたりは、自分でも過去のブログ記事を参照してようやく思い出せるという状況である。『常用妙手』については広島県三原市立図書館で秀策が保管していたと思われる本(「桑堂所持」と表紙に記されている)を見たが、その時は撮影をせず、二度目の訪問時には本が失われていて残念であった。
 今回の本は『週刊碁』で二〇〇九年一一月から二〇一一年六月まで、秋山次郎九段監修で掲載した講座を編纂したもの。その当時から本になることを期待していたが、AI囲碁の時代が到来した現在、刊行されることとなった。現在にいたる迄、手筋を解説した本の古典であり、多くの手筋集の原典となっている。左一郎については、必ず「本因坊家の塾頭をつとめた」とあるが、実際には家庭の事情(兄が家を相続したはずであったが)で石見国に戻った後のことで、疑問を感じる。

2018年8月28日 (火)

後醍醐天皇と楠木正成

 国文学者兵藤裕己氏著『後醍醐天皇』が刊行された。国文学者小川剛生氏による『足利義満』とともに、歴史学者の描くものとは異なる人物像が描かれている。
 後醍醐が登用して側近にした人物として戦前から有名なのは日野資朝と俊基である。同じ日野氏ではあるが、資朝は一二世紀半ばの日野氏当主資長の末裔で、代々の当主は公卿となっており、資朝の父俊光は権大納言に進んでいる。一方、俊基は資長の兄で、崇徳院の側近であったためか、保元の乱の直後に出家した資憲の末裔で、俊基の父種範が初めて公卿=刑部卿となった。俊基の方が早くから後醍醐に仕え、文保二年に後醍醐が即位すると蔵人に起用された。資朝の方は父俊光までは持明院統の廷臣であり、後醍醐が元亨元年に天皇親政を開始した際に側近に加えられたという。これにより俊光は資朝を義絶した。資憲の曾孫重子(修明門院)が後鳥羽の間に生んだのが順徳天皇で、後鳥羽とともに承久の乱の中心的存在であった。
  後醍醐の母忠子は産まれてすぐに父忠継が死亡したことにより、花山院師信の養女となり、後に後宇多の後宮に入った。師信の母は毛利季光の娘であるが、生まれてすぐに宝治合戦が起こったため、兄弟師雄とともに花山院家で育ち、師継との間に師信を生んだ。師信は父師継晩年の子で建治元年(一二七五)の生まれである。師信は毛利時親の従兄弟になるが、年齢的には長崎泰綱の娘亀谷局と時親の間に生まれた貞親や親元と同世代と思われる。『河内長野市史』をみても確証となる史料は残っていないようであるが、楠木正成に大江家伝来の軍学を講義した毛利修理亮とは時親ではなく、修理次郎を子に持つ親元であったと思われる。系図には四郎としか記さないが、親元が修理亮であったがために、その子が修理次郎であった。
 楠木氏についても「楠木」「楠」の両説があり、兵藤氏は後者を採用されている。その初見史料が永仁三年(一二九五)の楠河内入道であるが、これ以前に駿河国入江庄楠木村から北条氏の代官として河内国に入部していた。一方、河内国加賀田郷を領地とする毛利修理亮の母は入江庄内で楠木村と境を接する長崎郷を苗字の地とする長崎氏の出身であった。
 師信の子師賢は嘉元元年(一三〇二)の生まれで、元弘の変では後醍醐の側近として活躍したが、捕らえられて配流先の下総国で死亡している。楠木正成の生年は不明だが、永仁年間に比定されている。師信が同世代である親元を知っており、そのもとで学んでいた楠木正成の存在を知っていたのではないか。そして師賢を通して、後醍醐天皇と楠木正成が結びつくのである。両者が結びつく有力なルートであったことは確実である。

2018年8月26日 (日)

中世石見国の新史料から4

 八号文書で永禄二年に来海内で松浦源左衛門が田地と屋敷地を与えられているのは永禄四年八月一日(一〇号)文書にある「先年山吹之城兵粮馳走」によるものであろう。永禄二年の時点では石見国にいたと思われ、永禄四年には義久がこれを安堵しているが、この時点では出雲国に移っていたと思われる。松浦氏に感状を与え、所領の安堵を行っていた温泉氏も同様の状況にあったと思われる。
 いずれにせよ様々な観点からの検討がなされ、且つ無年号文書については年次比定がなされなければならない。その意味で、一四号尼子氏奉行人連署奉書写について言及する。この文書には花押影が残されており、立原幸隆の花押が注目である。その花押は永禄二年までのもの(Ⅰ)と永禄四年以降のもの(Ⅱ)で明確に異なっている。永禄三年末に尼子晴久が死亡しており、それが変化の背景であろうか。
 一四号文書は年未詳三月一二日尼子氏奉行人連署奉書写であるが、立原幸隆の花押は永禄四年以降のⅡと異なっており、永禄三年以前のものである。牛尾幸清・立原幸隆・河副久盛という三人の組み合わせも、これと七号文書以外には確認されていない。七号は前述のように弘治三年九月二八日晴久袖判尼子氏奉行人連署奉書であるが、苗字と官職が名前の肩の部分に記されているのに対して、一四号は苗字のみの簡略タイプである。前者は実際に晴久まで上申した上で発給されたものだが、後者は奉行人レベルの判断で出されたものである。弘治二年七月の忍原の戦で尼子氏が毛利方を破ったため、一旦は毛利氏の圧力が弱まったが、七号のように弘治三年の春以来、毛利氏と福屋氏が温泉城を攻撃していたことがわかる。そうした状況の中出されたのが一四号文書であった。弘治三年に比定できる。次いで、正式な形で出されたのが七号文書である。一五号と一六号文書も同年のものであろう。とりあえずはここまで。

中世石見国の新史料から3

 この時期の山根家文書と松浦家文書の状況には共通する点と異なる点がある。山根家文書には弘治二年六月八日某袖判小笠原長秋書状(山根隠岐守宛)が残り、松浦家文書には弘治二年と三年には温泉氏からの感状と給分安堵状が四号から六号文書の三通みられるとともに、弘治三年九月二八日晴久袖判尼子氏奉行人連署奉書が残っている。この時期、山根氏に対する尼子氏発給文書は確認できないが、小笠原氏に対しては度々出されている。陶氏方であった小笠原氏と温泉氏はそれぞれ毛利方と対抗するために、尼子氏と結ばざるを得なかったのだろう。その結果、小笠原氏一族や温泉氏の家臣である松浦氏に対しても尼子氏から文書が発給されるようになった。当時の状況を知る貴重な史料である。
 弘治二年七月には石見国に出兵した尼子晴久軍が忍原の戦で毛利方を破り、佐波氏や福屋氏の攻撃を受けていた小笠原氏はピンチを脱することができたが、温泉氏も同様の状況にあった可能性が高い。天文二三年九月には福屋氏が江要害に進出していたが、この時点では、福屋氏が尼子方・毛利方のどちらと結ぶかは微妙であったが、一一月の新宮党討滅により完全に毛利氏方を選択している。
 弘治三年四月に大内義長を自害に追い込み防長占領が達成されると、毛利氏による本格的な石見国侵攻が開始され、永禄二年六月には小笠原氏の居城温湯城は再び包囲された。同年四月の時点で、福屋氏から毛利氏出兵の情報がもたらされ、晴久が永禄二年七月にも石見国出兵を行ったが、今回は江川の渡河を阻まれて小笠原氏の救援に失敗し、七月二八日には温泉津に退いていたことがわかる。まさに、温泉氏の所領であった。次いで九月二七日には大田まで退き、その後一〇月二四日には伊弉冉・伊弉諾社に帰国の社参を行っている。
 これにより八月末に小笠原氏は毛利氏に降伏したが、晴久の温泉津退陣は温泉氏にも四面楚歌的状況をもたらしたはずである。その結果、温泉氏は一旦石見国を出、出雲国内で尼子氏から所領を与えられた。

 

中世石見国の新史料から2

 次に昨日届いた『島根史学会会報』五六号では歴博所蔵「松浦家文書」の紹介と翻刻が目次謙一氏により行われている。第一印象は、鋳物師山根氏の文書と共通する点が多いことである。農業というよりも流通に関わる権益を持った家である。以下ではこの翻刻の号数を使用。
 山根家文書については、市山山根文書は知られていたが、同族ではあるが文書は異なる川本山根文書の影写本と謄写本が東大史料編纂所に保管されていた。論者が偶然検索していてヒットし、その存在を紹介し、井上寛司氏作成の中世石見国関係史料目録にも掲載された。文書の所蔵者志賀槙太郎氏については古文書収集家という程度しか知らなかったが、昭和の初めには東大文学部古文書課勤務であったと「米沢前田慶次の会」のHPに記されていた。氏の所蔵した近世文書には昭和九年には米沢郷土館の所蔵となったものがあるとも記されている。
 山根家文書に戻ると(市山と川本のものを併せてみる)、鋳物師山根氏は松浦氏と同様、小笠原・温泉氏という有力国人領主のもとで活動する存在である。当初は両者とも小笠原氏からの発給文書のみであったが、大内氏の出雲富田城攻敗退後、温泉氏関係者の発給文書が登場する。天文一二年一二月一三日定永書下(山根善右衛門宛)であり、二号文書天文一三年八月一七日の某実名書出書(松浦源左衞門宛)である。某の花押影をみると、隆長の花押と共通性がみられ、温泉氏関係者の発給文書ではないか。
 次いで天文二〇年四月二九日に温泉信濃守隆長書下と温泉氏(大内氏?)の家臣である片山・横路氏の連署安堵状が山根氏に対して出され、松浦氏に対しても三号文書天文二〇年五月一二日の温泉隆長書下が残っている。天文二〇年の尼子氏は美作方面へ軍事活動を展開しており、その分石見国への影響力が弱まり(天文一八年には小笠原氏が元就の子元春による吉川家相続を祝っている。大内氏方の温泉氏による山根・松浦氏への影響力が強まったのではないか。ところがこの年の八月末に陶隆房(晴賢)が挙兵し、義隆は九月一日に自害に追い込まれている。
 尼子氏にとっては好機到来であるが、尼子氏の東部方面遠征も成果を上げてはいない。幕府による天文二一年四月の八ヶ国守護補任も単なる利害の一致によるセレモニーでしかなく、影響は殆ど無かった。大社の商人坪内氏を備後に派遣して備後国江田氏を現形させたが、これも失敗に終わった。
 石見国人は義隆死亡後、陶晴賢と結ぶか、毛利元就と結ぶかの選択を迫られていた。佐波・小笠原・温泉氏は陶氏と結んだが、福屋氏は毛利氏ないしは尼子氏と結ぶ動きを示した。いずれにせよ反陶氏である。そうした中、天文二三年一一月の尼子晴久による新宮党討滅事件が発生し、福屋氏は毛利氏と結ぶことを決定した。次いで、翌天文二四年一〇月一日には厳島合戦が行われ、毛利元就が陶晴賢を破った。

 

中世石見国の新史料から1

 石見銀山遺跡の研究が進む中、石見国の中世文書の原本ないしは良質の写しの発見が相次いでいる。人口流出の中、保管されてきた古文書が売却され、古書店の目録に掲載されるというケースもみられる。
 『世界遺産 石見銀山遺跡の調査研究8』には伊藤大貴氏「史料紹介 熊谷家文書所収の石田主税助宛中世史料写について」が掲載されている。熊谷家は大森町の有力町人で、その屋敷が文化財として保管され、文書の調査も続けられている。五通はすべて毛利氏が内田主税助に対し、波積郷並びに温泉、温泉津において権益を与えたものである。先に古代出雲歴史博物館所蔵の石見石田家文書6点が紹介されたが、当ブログでも「石田主税助について」と題して、郷原家文書に残る石田家文書の目録と石田氏の系図について紹介した(県立図書館所蔵謄写本)。そこでは一二通の中世文書が記されており、今回の五通も含まれている。
 郷原家文書は、石田友左衞門が慶応三年正月二九日に求めに応じて大森本陣に提出したものの写であり、今回の熊谷家文書の写の原本となるものが幕末時点で石田家に歴博所蔵のものと一括して保管されていたことは明らかであるが、県の担当者では郷原家文書を未確認だったようである。当ブログでこの記事をアップしたのは二〇一一年一月六日のことであった。歴博所蔵の石田家文書については、二〇〇九年に目次謙一氏が、二〇一〇年には本多博之氏が報告しているが、その後、関係する情報収集が十分に行われなかったことになる。
 今回の文書で明確になったのは、永禄五年七月の時点で、毛利氏は石田氏に直接文書を発給していたことである。郷原家に残されている系図については石田主税助が安芸国から石見国に入部したとされる点について信憑性は低いことを前のブログで述べたが、既知の文書の中に気になる二点があった。
 それは天文二三年に比定できる九月一八日毛利元就書状であり、厳島神社関係者である棚守左近将監に対して石見国の状況を伝えている。すなわち、毛利氏と結ぶ福屋氏が江要害を請取り、陶方として守ってきた杉治部大輔は要害を福屋氏に渡して周防に下ったとして、石州口の状況は大いに戦果が上がり本望であるとしているが、詳細は「石六」に申したとしている。毛利氏と棚守氏の間の連絡に石田六郎左衞門尉が従事している(関係文書は天文九年以降、多数見られる。また、大内氏奉行人書状にもみえる)。年月日未詳毛利隆元書状には、隆元が宮島大本御湯立の際に鬮を引かせるために使者春軄を目的を知らせずに棚守のもとに派遣し、夜中に二人で鬮を引かせることを述べている。この春軄が石田六郎左衞門尉ではないか。そうすると、安芸国の石田氏が石見国へ入部したとの系図の記載もあながち否定できなくなる。
 幕末の時点で石田家文書の中世史料は一二点あった。その後、相続か何かで二つのグループに分かれたと思われるが、文禄三年二月二八日今井越中・有松理助連署田畑坪付のみが、石田氏の所領を考える上で貴重なものであるが、ぱっとみたところでは毛利氏との関係がうかがわれないため、写されなかったのであろうか。

 

2018年8月25日 (土)

異なる方向から考えてみる4

 出雲土屋氏の一族で、後醍醐から出雲国大葦を与えられた家と丹波国宮田庄垣屋を与えられた家の中には、早くから丹後・丹波・但馬・播磨国に入部し、動乱の開始時に幕府方となることで勢力を拡大した人物がいた。大葦氏は丹後国を拠点として、守護となった山名師義とその子義幸・満幸の守護代となり、明徳の乱の時点では大きな勢力を持っていたが、子に守護代を譲り、山名氏惣領時義の守護代となった人物を除き、明徳の乱で多くが没落してしまった。これに対して垣屋氏は時義の子時熈方となり、明徳の乱では当主が討死したが、その子孫が一五・一六世紀の山名氏の家臣としては最も大きな勢力を持った。  
 土屋氏の系図は信頼のおけるものがほとんどなく、簡単な情報しか得られなかったが、肥前島原松平家文庫に残されていた「土屋垣屋系図」は出雲土屋氏と垣屋氏の動向を解明する上で重要な役割を果たすことができる。所在をご教示いただいた方(本人の個別の事情で、ペンネームしか公開されていない)に感謝したい。同様に、宍道氏についても、『日本氏族大観』上に公開された高岡氏と宍道氏の系図により、出雲佐々木氏一族と京極氏庶子宍道氏の歴史解明に大きな前進が可能となったが、これも実際の系図を調査するには至っていない。
 最初に触れた「北野末社」の問題に戻ると、本ブログでは、大田別宮、福頼庄についても、その所在地の再検討を行い、成案を得ることができた。また、阿野庄金沢村は駿河国にあることも明らかにした。ところが、結番帳や関係史料を利用してもそうした点の分析・再検討をした人を他に知らない。根拠も薄弱な昔からの説(通説となっている場合も多い)に対して疑問も持たずにそのまま使っていては研究ではないと思うがどうであろうか。
 歴史研究に限らないが、公式に基づき考えても問題が解けず、かえって虚像を生んでしまうことは珍しくない。異なる方向から考えてみることは資料の声を聴いて実像に接近するためには必要不可欠である。

異なる方向から考えてみる3

 但馬国というのは、伯耆国船上山から上洛する途中地域であり、山陰道の因幡・但馬・丹後・丹波と山陽道の播磨国の掌握が急がれたわけで、馬にニンジンではないが、関係者に一層の活躍を期待して、それらの地域の所領を恩賞として与えたのであろう。ただし、いいことのみではなく、それらの地域の国人で、北条氏跡からの所領回復(本領安堵)を期待していた人からすれば、とんでもないことで、その人々は動乱時には室町幕府方となった可能性は大である。
 具体例についてはすでに述べたので繰り返さないが、一次史料にはほとんどが「伯耆守長年」とあり、ごくまれに寄進状には源朝臣と署名している。「名和」についても、後醍醐から恩賞として名和庄を与えられたので、それを苗字にしたのではないか。ただし、名和庄の実態は範囲を含めて全く史料がなく不明である。『太平記』『梅松論』『増鏡』には隠岐から直接名和に着いたように記されるが、事実ではなかろう。とくに『梅松論』には「奈和庄野津郷」に着いたとあるが、野津郷は現在の琴浦町内の地で、ここまで名和庄に含まれていたとはありえない話である。『増鏡』と『関城書裏書』には伯耆国稲津浦に着いたとあるが、これも名和庄内である可能性は低い。もっとも詳細な『古本伯耆巻』と『舟上記』には、当初、追っ手の清高の船が美保関に入ったとの情報もあり、加賀庄内野波に入ったが、ここで清高軍を防ぐのは無理だとして、西へ進み杵築に着いて、塩冶高貞の協力を依頼するが断られ、杵築社神人の追求を受けそうになって東へ進み、名和の五里東の片見(方見)まで行ってしまい、そこから西へ戻って上陸した大坂から名和氏に連絡して、名和氏の迎えを得たとしている。
 戦前に平泉澄氏(東大教授でドイツと比較して日本中世史を論じていたが、ある時点を境に皇国史観の旗手となり、東大国史学研究室には神棚が置かれ、関係者には入室の際に礼をすることが求められた)が発掘した『古本伯耆巻』には古い情報が残されているが、その一方で、名和氏系図と『舟上記』に登場する長年の弟で出雲国で自害した泰長についてはまったく触れていない。史料を残した人々が写した際に、不都合な情報、自分たちには関係しないと思われた情報が削除されたと思われる。個々の情報について他の史料と比較・検討しつつ利用していなかければならない。

異なる方向から考えてみる2

 もともと、貞治三年に山名氏が幕府に復帰し、出雲国が京極氏の領国となった際や、明徳の乱後に、出雲国の反幕府方国人が山名氏領国へ移住し、布志名氏、塩冶氏などのように山名氏の重臣となったと考えていたが、その説では説明できない事態となった。
 そうした中で、後醍醐の隠岐脱出に重要な役割を果たし、出雲国人としてはいち早く船上山の倒幕方に参陣した土屋三郎宗重に関する系図が名和一族系図に含まれていた。宗重には「筒河三郎左衛門尉」、その父宗行には「土屋千原出雲権守」との注記があった。千原の場所も問題だが、「筒河」は希な地名であり、その場所を確定できるのではないかと、国土地理院地図と史料編纂所データベースを手がかりに考えた。その結果、丹後国筒河保(筒川庄とも表記)が宗重が獲得した所領だと確信した。全く知らなかったが筒河保にある宇良神社は浦島太郎伝説の発祥の地である。何より、筒河の地が湾を挟んで若狭守護に補任された布志名雅清が与えられた名田庄を臨む位置にあることに納得した。
 建武政権は三年で崩壊して南北朝の動乱が開始され、丹後国でもやはり室町幕府方が優勢であり、土屋氏はすぐに筒河保を失い、筒河保は領家・地頭を兼帯の幕府御料所になったにもかかわらずである。そこから、父宗行の千原も同様であり、且つ名和氏系図に長年の一族について苗字が記されているが、それも同様ではないかと思った。当初は伯耆国における名和氏一族の勢力圏が分かると思って検討したが、該当する地名はほとんどヒットしなかった。
 地名が同じならば良いというわけではない。他国にも同じ地名はあるのである。そこで国立歴史民俗博物館の庄園のデータベースも参考にして考えてみた。手がかりとしては、後醍醐が隠岐脱出に協力した人々に与えたのは幕府や北条氏関係者領であるという点と、関東御領・得宗領の中には室町幕府の御料所につながるものが多いとの指摘である。足利高氏・直義兄弟が与えられた所領はすべて北条氏一族領であった。一方、伯耆国の巨勢氏は、後醍醐からの感状と恩賞を与える綸旨を残しているが、与えられたのは但馬国の所領二ヶ所であった。ただし、その時点で誰の所領(跡)であったかは記されていない。但馬国は弘安八年の大田文が残っており、その時点の領主は確認できるが、それ以降に北条氏一族領や関係者(幕府・六波羅探題の職員)領となったものもあるであろう。

異なる方向から考えてみる1

 三ヶ月ほど前に、名和氏について『鳥取県史古代中世史料編』に基づき考えたが、何も確実な資料がないことに気づかされ、落胆した。きっかけは毛利氏と楠木氏の関係から、楠木正成に関する最新の研究成果を確認したことであた。それが、土屋垣屋系図、名和系図同一族系図などの存在を教示いただいたことで、異なる方向から考えざるをえなくなった。
 文永八年杵築大社三月会当役結番帳の「北野末社」について所在地を検討していた。決め手に欠けていたが、北野姓(苗字)が島根町大芦(大葦)に集中していることから再検討した。『雲陽誌』の中でどこに天神があるかを調べ、地図上に落としたものをHP「資料の声を聴く」の表紙に使っている。最初に作成した段階では、大葦の天神は中世に遡るものには入れてなかったが、戦前に県寺社係が寺社から報告させた資料から、大葦の天神には戦国期の宝物があることから、大葦が北野末社であると確認した。結番帳の記載順序からも問題はない。
 大葦の北野天神への寄進時期は、蓮華王院領加賀庄の成立に先行したはずである。そうでなければ持田をも含む広大な領域の加賀庄に含まれたであろう。その意味では、揖屋社が成勝寺領として成立した後に、その周囲を含む地域が下賀茂(鴨)神社に寄進され意東庄が成立したのと同じである。これに続いて意東庄に隣接する安来郷が、神社の要請を受けた頼朝により寄進された。これに対して大原郡福田庄(加茂庄)は上賀茂神社領である。
 一方、大葦説の問題点も出てきた。正平一〇年時点で大葦氏が山名氏の丹後国代官を務めていたことと、応安五年に山名師義が、その後山名氏領国の中心となる但馬守護に幕府から初めて正式に補任された際に、守護代として大葦入道が下向していた。この点を普通に考えると、土屋氏一族が鎌倉初期から大葦の地頭であったため大葦氏を名乗ったことになるのである。北野末社の文永八年の地頭は東国御家人と思われる香木氏である。南北朝期に土屋氏が大葦を得た場合、正平年間にすでに大葦氏を名乗っている可能性は低い。また山名氏の代官に起用されたのは丹後国内で一定の勢力を有していないとありえないことである。丹後国の代官としての実績を山名氏惣領師義に評価され、新領国但馬の守護代に起用されたはずである。

2018年8月24日 (金)

大葦氏と山名氏の関係2

 正平一〇年三月一七日の守護奉行人奉書(端裏には大葦殿渡状と記す)はこのような状況で出されたもので、大葦氏を含めて時氏のそれまでの領国支配では登場しない人物であり、丹後国は貞治三年に山名氏が幕府に復帰した際に守護に補任された師義が実効支配を行っていたと思われる。師義のもとで登用されたのが大葦土佐守信光であった。
 大葦信光は後醍醐への勲功により加賀庄に隣接する北野末社(大葦庄)を与えられた一族に属していた。丹後国内にも恩賞の地を得、動乱開始後は早い時期に幕府方に転じ、暦応四年から観応元年まで丹後守護であった山名氏との関係を深めた。時氏の嫡子師義に登用され、その代官となった。
 師義は応安五年一二月には但馬守護に補任され、守護代として大葦入道が下向した。これが丹後守護代であった信光であり、前後して丹後守護は師義の嫡子義幸(山名五郎→民部少輔)に交替し、守護代も大葦入道の子と思われる土屋刑部左衛門尉(遠江守信貞)に代替わりした。
 師義は弟時義を養子として山名氏惣領の地位と但馬守護を譲り、永和二年三月に死亡した。時義の守護代は土屋氏と同様出雲国出身の布志名宗清(善勝)が務めたが、後には時義の官領となった。師義の嫡子義幸が病気がちであり、至徳元年には弟満幸が兄に代わりに侍所頭人を務め、翌年には丹後守護となっている。同時に守護代も土屋土佐守に交替し、土屋前遠江守信貞は備後国で所領の打渡を行っている。至徳三年九月二三日には満幸が杵築大社に所領寄進を行っており、出雲守護が兄義幸から交替したことがわかる。一方、翌年には義幸が丹後守護に復帰しており、佐藤氏が推測するように、満幸の出雲守護補任時に丹後守護を義幸に返したと思われる。ただそれも一時的なことで、再び満幸が丹後国守護に復帰し、明徳の乱を迎える。この時期の満幸の丹後守護代は大葦次郎左衛門尉宗信であった。宗信は明徳の乱で討死した満幸の家臣である土屋党五三名の中心であった。
 大葦氏は出雲土屋氏の一族であるが、出雲国内では動乱の中で反幕府方となった一族が多かったためか、満幸のもとで守護代に起用されたのは、高貞討伐後、塩冶氏を継承し、京極氏の守護代と務め、幕府奉公衆にもなった高貞弟時綱流=後塩冶氏であった。山名氏領国の守護代は守護本人との関係で起用されることが多く、守護の交替で守護代も変わることが多かった。

大葦氏と山名氏の関係1

 山名氏は建武四年七月二三日に伯耆守護在任が確認できる時氏以降、その領国を拡大し、明徳の乱の直前には一族で一一ヶ国の守護となり六分一衆と呼ばれた。その中で、実務に当たった守護代について確認しつつ、標題の問題を整理する。
 山名時氏の守護代が小林国範であったことはすでに述べた通りである。出雲国淀新庄に関する暦応四年四月八日引付頭人奉書を受けて、九月七日に時氏が遵行を実施した旨の請文を提出している。三月一四日には加賀庄について幕府から守護へ命令が出されたが、その直後に守護塩冶高貞が謀叛の疑いで逐電したため、八月二三日に朝山肥前守景連が報告しており、朝山氏の代行を経て、高貞討伐の功により、伯耆守護山名時氏が出雲守護に補任された。時を同じくして時氏は一〇月四日には丹後国志楽庄地頭職の遵行を命じられており、丹後守護にも補任された。出雲守護は康永二年には京極道誉に交替している。丹後守護については佐藤進一氏『室町幕府守護制度の研究』では康永二年一一月六日の遵行命令までが確認できるとされているが、その後も観応元年五月二八日に山名道静(時氏)の奉行人二名が連署で守護代箕浦四郎左衛門入道に、幕府の今月三日の奉書に任せて河上本庄領家職の下地を雑掌に沙汰付け、報告することを命じている。
 奉書とは高師直が奉じており、山名袈裟房殿宛になっている。時氏の子と思われるが、実際に守護権を行使したのは時氏とその家臣であった。箕浦入道は六月七日付で箕浦八郎に沙汰付けの実効と請取状の提出を命じている。次いで、七月二日には源長俊・大江頼高連署打渡状と僧妙運の請取状が提出されている。そして七月二八日には幕府からの軍勢催促を時氏が箕浦入道に伝え、二九日付で入道が加佐郡地頭御家人中に命じた文書が残っている。
 観応の擾乱の時期であり、康永二年と観応元年の間に一旦守護が交替した可能性もあるが、観応二年四月一三日に丹後守護の在任が確認できるのは石見国大将軍から転じた上野頼兼である。時氏と頼兼はともに直義派であり、政変に伴う交替ではない。翌三年八月八日には高師詮が丹後守護に在任しているが、これは擾乱で尊氏が直義に勝利した結果であった。ただし、この直後に尊氏のもとに残留していた時氏の嫡子師義が京極道誉との間の所領をめぐる対立から父時氏のいる伯耆に戻り、山陰道の大半を実効支配するようになった。

2018年8月22日 (水)

勲功の賞と苗字の地10

  隠岐閥の人々に後醍醐天皇が与えた所領は、これまでみてきた但馬・播磨・丹後・丹波以外にも、船上山のあった伯耆と隣国因幡にもあったであろう。伯耆守に補任され長年の名を与えられた長田長高が伯耆国奈和庄を得たがために、後世に名和氏と名乗るようになったとの仮説も提示した。倒幕という目標は未だ達成されておらず、それが実現した時点で正式な論功行賞が行われなければならない。そのため、当初の行賞では、本主としては北条氏等が選ばれ、地域的にも倒幕に向けて掌握すべき伯耆から都へつながる地域の所領が隠岐閥の人々に与えられた。とはいえ、正式な行賞を行った際には全体のバランス調整のため、見直しが行われたと思われる。雑訴決断所を構成する寄人についても、元弘三年九月に一旦決定したが、一年後の建武元年八月に拡大・再編成されている。
 隠岐閥の一人布志名雅清が若狭国守護に補任されたのは元弘三年八月三日であった。同時に若狭国内に複数の所領を得たと思われるが、史料が残っているのは名田庄惣庄のみである。守護代信景をはじめとして、村山弥三郎、蔵谷左衞門三郎、和久利、浅井弁阿闍梨など多数の部下を引き連れてであるが、それ以前の部下との関係は不明である。そして守護関係者は周辺所領の押領を行い、太良庄関係者(東寺・百姓)、大徳寺から訴えられている。同様に、建武二年二月には、北条氏領が闕所として東寺に寄進された因島に対して、杵築太郎以下の悪党が濫妨をして訴えられている。杵築太郎については、建武三年七月六日の軍忠状の中で幕府方の平賀共兼が「討取伯耆守長年一族杵築太郎」と述べており、伯耆守家との間に姻戚関係を結んでいたと思われる。備後国内には守護に補任された朝山出雲権守景綱とその同族と思われる佐々布氏、塩冶氏一族の古志氏が所領を得ていたが、杵築太郎もまた備後国内で恩賞の地を得ていたと思われる。
 この時期の軍忠状と綸旨としては日御崎神社とその社家小野家に残っている日置氏関係のものがあるが、他の後醍醐天皇綸旨と内容・形式が異なることから、後になった作成されたものである。ただ、そこに記された情報については、事実に基づくものもある。建武三年正月日大野庄内加冶屋村惣領三崎次郎日置政高軍忠状には、建武二年一二月二一日に、建武政権の美作国守護であった富田秀貞とともに美作国を発行し、正月一一日に京都に攻め入ったことを記すが、この部分は事実に基づくものと思われる。富田秀貞もまた美作国内の恩賞を得ていたはずである。ただし、それを受ける形で出された足利尊氏の感状と当知行を安堵する袖判下文については、当時の尊氏の文書発給状況と明らかに異なっており、後世に偽作されたものである。

勲功の賞と苗字の地9

 観応二年正月二四日足利尊氏袖判下文により、島津忠兼に勲功の賞として江石見左衛門大夫跡と播磨国布施郷下[司]職が与えられている。弟直義との対立の中での措置であった。後者については、貞和五年七月二日尊氏袖判下文で与えられた岩間四郎左衛門尉跡布施郷地頭職の再確認であろう。問題は前者であるが、貞和二年六月二一日尊氏袖判下文で与えられた布施郷公文職であろう。その後も布施郷公文職と地頭職は別々に将軍から島津氏に安堵状が与えられている。
 岩間氏は陸奥国御家人であったが、正和四年一一月には岩間三郎入道道貴が播磨国小犬丸保地頭となっていることが確認できる。小犬丸保は穀倉院領として一〇世紀末には成立していたが、応保年中に小犬丸保を含む布施郷が国司と結ぶ平頼盛により立庄されると、小犬丸保は田のみであると称して山林畠地を布施郷側が押領した。これに対して建久八年四月に小犬丸保側の要請を受けて、朝廷が播磨国に小犬丸保の四至を定めて雑徭を免除している。岩間氏は南北朝動乱の初期に幕府方となることで、隣接する布施郷地頭職を勲功の賞として獲得したのではないか。
 観応二年四月一三日には幕府が丹後国守護上野頼兼に河上本庄領家職に対する岩間弾正忠と新□衛門尉の濫妨停止を命じている。文和三年二月には興福寺別当が播磨国吉殿庄への岩間三郎左衞門尉の濫妨停止を訴えている。
 江左衞門大夫については、延文四年に同国土山庄地頭職に対する押妨を行ったと批判された莵原住吉社神官若狭前司江左衞門尉と同一人物であろう。土山庄地頭職は建武三年に幕府により同国広峯社に寄進されたが、その後住吉社にも一旦寄進され、その後寄進が破棄された。これに対して住吉社側は後日の寄進状が優先するとして濫妨に及んだ。
 すでに述べたように、土山庄地頭職と布施郷地頭職は伯耆守一族に与えられたと推定した所領である。前者は幕府から広峯社に寄進され、後者は岩間氏に与えられたが、観応の擾乱の中で直義方となった岩間氏領が闕所とされ尊氏方の島津氏に与えられたのではないか。

勲功の賞と苗字の地8

 元弘三年五月七日に六波羅探題が滅ぼされた後も幕府方と反幕府方の戦闘は続いていた。五月一六日には千種忠顕袖判の軍勢催促状が安芸国人熊谷小四郎直経宛に出されている。直経は閏二月末から四月二日にかけては幕府方として河内国楠木城や千岩屋城の攻撃に参加していたが、四月二〇日には後醍醐天皇綸旨により一族の直重に対して、軍勢催促状が出されている。また、四月末には船上山攻撃のため派遣されていた足利高氏が、伯耆国から勅命を受けたとして、全国の国人に軍勢催促を行っている。
 そうした中で直経も立場を変えて倒幕方の催促状に応じたことになる。直経代直久軍忠状をみると、それ以前に四ヶ国凶徒退治の後醍醐天皇綸旨が出され、大将熊谷直清のもとで直久が軍忠をつんでいる。五月一二日には丹後国熊野郡浦家庄に馳向かい二階堂因幡入道城郭を追罸し、翌一三日には浦富保地頭が逐電した跡の城郭を焼き払い、次いで木津郷の三浦安芸前司の城を破却、さらには道後郡丹波郷の後藤佐渡入道の城を破却している。以下も同様だが、六波羅探題関係者の所領と城の接収を行っている。
 一四日には木津庄と船木庄北方の城を破却し、一五日には同東方の違勅人が逐電したため、その城郭を焼き払い、次いで丹波郡の松田平内左衞門の城郭二ヶ所と光安地頭佐々木三郎判官代田奈町六郎の城を焼いている。一日おいて一七日には大石庄内三薗の城郭を破壊し、都合一一ヶ所の追討に従事したとして軍忠状を提出し、証判を得ている。ここにみえる大石庄が伯耆守長年の従兄弟である行村に与えられ、行村はこれを苗字の地としたのだろう。
 丹後国大石庄は頼朝以来、九条家領であった時も一条家領であった時にも地頭請所であった。これに対して弘安年間頃、新たな庄園領主からは請所の停止の方針が打ち出され、正地頭へ伝えることとなった。問題は地頭が誰かであるが、正中二年一一月日大江顕元書状によると大石庄は将軍の衣装等を管轄する御物奉行の料所とあり、関東御領の一つとして大江氏が給人となっていたと思われる。
 大江顕元は亡父覚一から伊予国久米郡惣政所と野口保地頭代を譲られたとして、安堵を求めている。伊予国は宇都宮氏が守護を代々世襲しており、顕元はそのもとでの代官なのであろう。嘉暦四年七月には大江顕元(江左衞門)の代官である称名寺雑掌左衞門尉兼久が、下地中分が行われた因幡国千土師郷東方上村三分一を請取っている。顕元は様々な形で幕府関係の所領の支配にあたっていたのであろう。

2018年8月18日 (土)

皆合と阿刀別符の関係

 以前、「福屋郷について」で述べた内容について再検討する。個々の所領の範囲が水系との関係が深いこともすでに述べた。阿刀別符は日本海の敬川を河口とする敬川の中流域にある現在の跡市とその支流沿いに展開していた。支流の一つが本明川であり、その中流西岸の標高四一七mの本明山上に築かれたのが福屋氏が中世後期に拠点とした乙明城であった。
 これに対して福屋氏領の大半は江川から分かれた八戸川の中・上流域に分布するが、下流域は桜井庄と呼ばれた。河口から三km上流の江尾で南東方面に分岐するのが日和川で、その上流部の盆地が、福屋兼広が最初に所領を得、苗字の地とした福屋がある桜井庄内日和郷である。次いで江尾からさらに四km上流の八戸東と八戸西に挟まれた地点で、南東方面に流れる八戸川本流と西南方面に流れる家古川に分岐する。分岐点から七km上流が美又であり、更に二km上流の南岸が皆合である。本明川とその支流入野川は皆合の約二km北側の地点までしか届いておらず、皆合が阿刀別符内なら別符内の所領が散在していたことになる。
 皆合の地点で家古川から分岐して南流する久佐川の流域が久佐である。皆合は福屋氏領というよりは本来は河上氏領であった久佐に含まれる。久佐の西隣の長屋もまた河上氏領であったが、こちらは下府川の上流域の所領で、長屋から皆合にかけてが現在の今福である。また久佐から下府川を五km下った地点が佐野であり、鎌倉期は石見国衙の有力在庁官人である河上氏領であったが、久佐と長屋は南北朝期後半以降は福屋氏領となっている。これに対して佐野は河上氏領のままであった。これ以降、福屋氏領の再編が行われる中、皆合が阿刀別符内に編入されたと思われる。
 河上氏と東福寺の関係については、本拠地である現在の松川町市村には、文永年間の京都仏師の作とされる本尊のある清泰寺があり、その対岸の川平町南川上にも光福寺が、河上氏の庶子である都治氏の本拠地にも慈恩寺が、安楽寺のある皆合に近い佐野にも良昌寺があり、すべて東福寺派である。

阿刀別符内安楽寺をめぐって3

 またまた、雑談にすぎないが、季刊文化財はその目録をみるかぎり、年四回のノルマは果たせておらず、一~三回が多いが、年度によっては一回も発行されなかったこともある。ここ最近は年度前半に一回発行するが、それが続かず、年度末に帳尻をあわせる形で二回発行する状況である。年四回発行には相当の努力が必要だが、担当者まかせにせず、全体で企画を検討しつつ、原稿を集める必要がある。なにより島根県文化財愛護協会の機関誌であるとともに、会費を納入した会員に対して義務を果たしていないことになる。発行されなかった年度はどのように対処したであろうか。
 さらに苦言を呈すれば、在庫のある号についてのみ目録を掲載しているが、それ以外についても目録に加えるべきである。貴重な文化的資源であり、参照する人が活用できなければ意味がない。県立図書館の蔵書検索をすれば、その内容確認はできたが、発行元として、在庫処分のためのみに目録を掲載するのでは責任を果たしたとは言えない。古代文化センターが他県の県史など活字本から島根県中世史の関係史料を目録としてアップしているが、これも一体どのような人々を対象にしているのかが不明である。研究者は自分で探すであろうし、一般の歴史愛好家にはこの形では敷居が高い。また、以前も述べたように、目録作成時に、刊本の年次比定・発給者の再検討をした上でならよいが、誤りがあったとしても利用者の責任で活用してほしいというのは、結局、研究上の進歩もなく、活用ができないのである。
 話を戻すと、「浜田市金城町今福七六九」を地図で検索すると、皆合の安楽寺に外ならないことが確認できる。古代文化センターでも県内の中世史料のリストは作成しているはずである。せっかくの情報提供を受けて、もう少し検討すれば確認出来たのに、まさか今福が中世阿刀郷内とは思わなかったのであろう。県の担当者に浜田市の安楽寺文書を確認してもらうため、文書名を記すと、天正一〇年四月六日吉川元長・元春連署安堵状(浜田市指定文化財)と天正二〇年霜月八日石中彦右衛門尉・長福寺・神保与三右衛門尉連署石州那賀郡阿刀郷内安楽寺領打渡坪付である。浜田市教委原氏に確認すれば、情報は得られるはずである。阿刀郷と皆合に関する専門的検討は、標題を改めて述べる。

阿刀別符内安楽寺をめぐって2

 季刊文化財一四三号について確認すると、島根県文化財愛護協会のサイトに目録が掲載されていたが、一四二号が二〇一八年三月二〇日発行であるのに、一四三号は二〇一七年三月三〇日の発行となっていた。後者は誤植であろうが、季刊とはいいながら発行は随時である。
 「安楽寺」で検索すると「安楽寺文書1」「安楽寺文書2」という画像ファイルがヒットした。その作成年は二〇〇六年であり、その頃、正しい文書かどうかの助言を求められ回答した記憶がある。井上寛司氏作成の①中世石見国関係史料目録や②中世浜田市域関係史料目録(こちらの方が新しい)には「安楽寺」関係史料が数点掲載されているが、当該文書は含まれていなかった。戦国時代が専門の島大長谷川氏に画像データを送って確認してもらったのみで、井上氏には連絡していなかったようだ。長谷川氏から安楽寺が所在する金城町「皆合」の地まで阿刀別符であったとは驚いたとの返事を受けたのを記憶している。
 ①には応永一七年一二月二日条(『東福寺誌』)に「石見国今福村安楽寺」がみえる。また、慶長七年二月一日観音寺恵隆避状の中に「観音寺」と「安楽寺」がみえる。観音寺文書は都野氏関係の寺院であったので、この安楽寺が今回の文書の安楽寺とも思われるが、寛文一一年の東福寺文書には石見国内の東福寺関係寺院が記されており、その中の一つには「今福村安楽寺」、もう一つには「皆合村安楽寺」と記されていた。これによれば今福村=皆合村となり、皆合村の安楽寺とは阿刀郷内安楽寺と同一寺院となる。
 一応、ネット上にも公開されている『島根県宗教法人名簿』の最新版で確認すると、「浜田市金城町今福七六九」に臨済宗東福寺派安楽寺が掲載されていた。東福寺派寺院は浜田市に一三、益田市に四、江津市に八、大田市に一、邑智郡川本町に二、美郷町に一あるが(近世の状況とほぼ一致)、出雲国、隠岐国にはなく、石見国でも鹿足郡、邑智郡邑南町にはない。臨済宗寺院は妙心寺派が多く、相国寺派(出雲市東部のみ)、南禅寺派と天竜寺派がわずかにある。天竜寺派は川本町一、邑南町三のみ。相国寺派保寿寺の藤岡氏なら、このあたりの事情に詳しいかもしれない。
 とりあえず東福寺派は益田(御神本)氏、九条家領、東福寺領(都野郷)との関係が指摘できる。ところが、出雲国になると、林木庄・美談庄・末次保など東福寺領があるにもかかわらず、東福寺派は皆無なのである。近世以降に本寺を変えたのかもしれない。

阿刀別符内安楽寺をめぐって1

 八月の近況について、この標題で述べる。
 たまたま、季刊文化財一四三号を県立図書館で手に取ったところ、「平成27年度購入の中世史料について」との記事があった。三点の文書が紹介されていたが、その中に標題の「安楽寺」に関するものがあった。この安楽寺について、浜田市金城町今福に「安楽寺」があるとの情報提供を得たが、江津市内に比定される阿刀郷とは離れすぎており別のものであろうとしつつ、寺が移転した可能性があると結んでいる。
 これを読んで、過去に浜田市教委の原氏から質問を受けた「安楽寺」のことを思い出したので、帰宅してPC内を検索する。ちなみに一週間ほど前にUSBメモリ(128G)が急に認識不能となり、混乱状態となった。おそらくは基盤が故障しており、データを取り出すには業者に依頼するしかなさそうである。とりあえずは、バックアップファイルから回復するしかないが、エクセル・ワードはバックアップの設定をしていなかったので、USBメモリ内に保存していたものは復元不可能であった。一太郎、花子については、一定時間作業をすると、自動的にバックアップが作成されるので、そのファイルからほとんど復元ができた。USBメモリ(128G)の故障は2回目である。ノートパソコンでSSDを搭載する機種なら128Gのものがあるように、大変な量である。1回目の際に、ワード・エクセルの設定を変えるべきであったが、たまたま別のパソコンでは一時的に読み込むことが可能であった。ネットで調べるとこのようなケースはあるようであるが、ただし一時的であり、間もなく読み取り不能となった。その一時期を利用して、大半のフォルダーの複写ができたので、それほどの被害とはならなかったが、今回はどの機種でも読み込めない。本来ならPCに接続したら明かりがつくが、今回はどのPCでも点滅するだけである。ということで、ワード・エクセルは必ずドキュメントフォルダーにも同時に保存する設定にした。
また、昨年四月に、従来作成したファイルの整理を行い、ほとんどを外付けHDD内に格納しており、それ以前のファイルはその時点のものが残っていた。

2018年8月16日 (木)

元弘収公地の一例

 遠江国初倉庄惣地頭が北条高時であり、倒幕の功で伯耆守長年に与えられ、七郷中四郷を支配する南禅寺が直務を認められたことについては前述の通りである。南禅寺は亀山院との関係が深い大覚寺統系の禪院であるが、建武三年七月一八日足利尊氏書下により元弘以来収公の寺領の知行が元の如く安堵されている。具体的には不明であるが、南禅寺領の一部が後醍醐により没収されたことになる。北条氏が寄進した地頭職であろうか。
 三浦貞宗(道祐)は建武四年六月一九日に元弘没収地越後国奥山庄金山郷を拝領したが、前年末に金沢称名寺が同郷を安堵されており、知行権が重なっていたため道祐が訴えたところ、同年一一月一八日に、称名寺の権利を認め、道祐には替地が与えるとの裁定が出されたが、道祐が不満を持って再度訴えたのである。
 問題となっているのは金山郷地頭職であろうが、由井尼是心の所領で永仁元(一二九三)年八月二九日には安堵の下知状を得ていた。それを養女平氏に譲り、永仁二年一一月二〇日に安堵の下文が出された。是心の死亡に伴うものであろうか。平氏は金沢顕時の娘で、名越時如の室となっていた。
 由井尼是心は武蔵国由井牧(八王子市)を苗字の地とする武蔵七党の西党由井氏の出身であったが(三浦氏出身とするものもあるが誤りである)、天野政景の室となり、建長八年(一二五八)七月三日将軍家政所下文により政景の子景経に船木田新庄由井郷内横河郷などの所領が安堵されている。景経は由井尼の子であろう。そして由井尼と金沢氏との関係については、天野政景の娘が北条実泰との間金沢氏初代となる実時を生んでいる。実時の母もまた由井尼の子であろう。実時の嫡子が顕時であり、その娘は由井尼のひ孫の子になる。由井尼の孫金沢実時が元仁
元年(一二二四)の生まれであることからすると、永仁元年の時点で由井尼は百才前後であったと思われ、翌二年に死亡したのだろう。
 金山郷は由井氏の所領で、姻戚関係を通じて金沢氏の女性に譲られていたことから元弘没収地とされたのだろう。平氏の夫名越時如は幕府滅亡後は奥州に逃れ、元弘三年一二月に陸奥国で反乱を起こしたが鎮圧された。金山郷は建武政権により欠所とされ、恩賞として某に与えられたが、その後の動乱の開始で幕府が某から没収して幕府方である三浦貞宗に与えたのだろう。
 これに対して金沢氏との関係が深い称名寺が、元徳三年九月六日に平氏から寄進されたとして、尊氏が北条氏関係寺院を含めて元弘以来収公の寺領の回復を認めた際に、幕府に安堵を申請して建武三年一二月一日に認められたのであろう。ところが、三浦道祐との裁判の中で、金山郷の本所雑掌と平氏の夫名越時如の間で行われた裁判の関係史料の記載内容が問題となり、雑掌所帯正慶元年御下知状と時如請文により、平氏は寄進の前年の元徳二年に死亡しており、元徳三年九月六日の平氏寄進状は偽作されたものであることが明らかとなり、幕府は金山郷地頭職を三浦道祐に安堵した。幕府滅亡時には平氏は死亡し、夫名越時如領であるとして元弘没収地とされたのだろう。  

2018年8月15日 (水)

加賀庄地頭による年貢抑留の背景

 暦応四年一一月二七日足利直義裁許状によると、加賀庄領家水無瀬三位家雑掌が、加賀庄内柏尾村地頭鹿園寺治部次郎による年貢抑留を訴えた事に対して建武四年と暦応元年の年貢を結解を遂げ、先例に任せて糺返すべしとの裁許が示されている。
 暦応二年三月一四日の時点では地頭に対して召文を遣わした上で、五番引付に移して当事者間の問答が行われる予定であったが、地頭は召文に応じなかった。そこで暦応四年三月一四日に朝山景連を通じて重ねて地頭の出頭を求めたが、地頭は請文の提出に応じなかった。そのため、被告不在のまま判決が下された。当然守護・守護代を通じて強制力が行使されるはずである。ところが、この年の出雲国守護については、三月の時点で謀叛の嫌疑を受けた塩冶高貞が都を出奔し、幕府が追討命令を出していた。その中で、出雲国衙在庁官人の筆頭であり、備後国司を退任して出雲国に帰国していた朝山氏惣領に守護権限の行使が委ねられた。その結末は不明であるが、この抑留の背景には動乱による地頭の交替があったと思われる。守護についても塩冶高貞追討の勲功により伯耆国守護山名時氏が補任されたが、康永二年には京極導誉に交代している。
 鎌倉期の加賀庄地頭は土屋氏惣領であったが、現実にはその関係者が地頭代として入部していたと思われる。それが土屋氏一族が後醍醐の隠岐脱出と船上山の戦いに協力したことで、動乱で成立した室町幕府が土屋氏領を闕所地として建武三年中に幕府方国人に与えた可能性が高い。柏尾村には楯縫郡の鹿園寺治部次郎が新地頭に補任され、入部したが、南朝方との合戦のためか、あるいは在地の掌握が不十分だったのか、はたまた年貢納入の意思がなかったのか、建武四年に続いて暦応元年の年貢も抑留されたため、領家雑掌が訴えたと思われる。
 やはり建武三年に補任されたと思われる加賀庄内大加賀村一分地頭空仙も、建武三年以来年貢抑留が続き、雑掌が幕府に訴えた。貞和二年三月と四月には出雲国守護京極道誉・守護代吉田厳覚を通じて訴状を地頭側に渡して、催促を加えたところ、空仙側が懈怠無く年貢の沙汰を行うことを約束したため、幕府は建武四年以降の年貢については結解を遂げ、未進があれば究済するよう、守護道誉に命じている。空仙の出自については史料を欠き不明であるが、土屋氏一族領が幕府から闕所とされ、新たに与えられた人物であった。以上、加賀庄内地頭による年貢抑留・未進事件の背景について述べた。

2018年8月14日 (火)

勲功の賞と苗字の地7

 暦応二年一〇月二四日には遠江国守護仁木義長が、初倉庄内八幡宮別当職について浄智寺蔵雲庵雑掌の申請に基づき遵行したが、依田兵部丞が濫妨したとして、守護代に対して那珂彦三郎左衞門尉とともに下地を雑掌に付けて請取状を進めるように命じている。
 ②により、遠江国初倉庄の地頭は北条高時で、得宗領であったことがわかる。八木氏は惣地頭高時のもとので庄内吉永郷の地頭であったと思われるが、初倉庄地頭職全体が収公され、その全部ないしは一部が伯耆守長年に与えられたのであろう。初倉庄は大井川河口から下流域の両岸の地域で、長年の嫡子義高に与えれた肥後国八代庄と同様に水運の拠点となる場所である。
 杵築景春について補足すると、その父は杵築五郎太郎景年であった。前述のように杵築太郎が建武元年には因島庄(後醍醐が得宗領を没収して浄土寺に寄進)に濫妨して悪党と呼ばれ、建武三年六月五日には幕府方の平賀共兼によって討ち取られているが、景年であろう。朝山氏、佐々布氏、古志氏等が倒幕の恩賞として備後国内に所領を得ていたが、杵築氏も同様に所領を得る中で、周辺の所領への干渉を行っていたのであろう。同様のことは遠江国でもみられた可能性が高い。初倉庄地頭職は室町幕府下では守護領となっていたと思われる。
 これまでの分析を踏まえれば、伯耆国「名和庄」(関係史料は全くなし)を与えられたことで長田長高が名和長年(後醍醐が名付)となったとすべきである。杵築太郎景年についても長年にあわせて改名したものだろう。
付記 大原郡阿用の地に「福富」「河井」の地名があるが、阿用を含む大東庄南は鎌倉期には飯沼氏領で、飯田・遠所・養賀が土屋氏領、大東庄北が千葉神保氏領であった。倒幕の恩賞として阿用が土屋氏領となった。(飯田と大東庄北の地頭名を初出から修正)

勲功の賞と苗字の地6

 建武三年二月八日、遠江国人八木秀清が遠江国初倉庄永(吉永ヵ)郷内下司名并阿曽名の本領安堵を足利尊氏に求めて認められている。この所領は元弘三年に収公され、伯耆守が拝領と号して当知行していたとする。伯耆守とは長年にほかならず、肥後国八代庄とともに、遠江国初倉庄も長年に与えられていた。
 「始蔵庄」とも表記され、美福門院領から八条院領をへて亀山院領となり、永仁七年に自らが禅寺とした禅林寺(南禅寺)に寄進している。昭慶門院領目録と『南禅旧記』ではここまでしかわからないが、国立歴史民俗博物館の庄園データベースによると、七郷中の鮎河郷・江富郷・吉永郷・藤守郷であり、これとは別に高野山や宝荘厳院も得分を得ていた。建武元年七月一二日後醍醐綸旨で庄内四郷が南禅寺の直務とされた。
 問題は地頭であるが、①正和五年七月日北条貞時書下と②正和五年月日北条貞時?書下(相州文書浄智院文書)が残っている。浄智寺は鎌倉五山第四位の寺であるが、南洲宏海和尚を実質的開山としている。①②とも写しか残っていないが、①には花押の主を貞時としながら、それ以前の応長元年に没していることを記した付箋があり、『鎌倉遺文』の編者竹内理三氏は「本文書偽文書なるべし」との注記を加えている。正和五年時点では貞時の子高時が得宗であった。②の花押は高時の花押といえなくもない形状である。②は南洲和尚塔頭蔵雲菴は諸方開山に準じて、代々の長老等が仏事を懈怠なく取り行うことを命じている。①は初倉庄坂口八幡宮別当職、吉田下□□神宮寺、河尻村増福寺、藤□守郷薬師寺、同郷長福寺の五ヶ所と初倉庄坂口星窪寺院主職について、亀崗殿御寄進と故相模殿(貞時ヵ)寄進に任せて、南洲和尚塔頭蔵雲菴に安堵している。①②ともに高時発給の正しい文書とすべきである。

2018年8月12日 (日)

勲功の賞と苗字の地5

 元弘三年三月四日、後醍醐天皇は伯耆国会見郡の巨勢宗国に対して、合戦の忠があったとして恩賞を与えることを約束した綸旨を与えた。船上山の合戦の直後のもので、同種の綸旨としては現存する最も早い時期のものである。会見郡には紀姓で伯耆守家の外戚内河氏女子を妻とする三能為成がいた。為成は某年一二月一一日に二一才で死亡している。その妻は正平六年(一三五一)に六一才で死亡しおり、正応四年(一二九一)の生まれで、子為基は正平二〇年に五九才で死亡しており、徳治二年(一三〇七)の生まれである。伯耆守とともに後醍醐方として戦ったのは子の為基で、船上山の合戦の時点で二七才であった。為基が恩賞として得た所領がどこであったかは不明だが、与えられたことは確実であろう。
 巨勢氏は元弘三年五月五日に但馬国亀別宮地頭職と土田郷一分地頭職を家盛が与えられている。この時点で後醍醐はなお伯耆国にいた。弘安八年の大田文では亀別宮が一二町六段、土田郷(石禾上郷)一分方が一八町九段二七二歩であり、両方を併せると田数三〇町余である。建武政権の崩壊によりその支配は不可能となったと思われるが、建武五年六月二日に幕府方守護山名時氏が相見八幡に伯耆国保田庄内三谷村地頭職を寄進しているように、相見氏の中には南朝方ではなく、幕府方となったものがあった。観応二年一二月二七日に源某が亀別宮と土田郷一分地頭職を由緒の地だとして相見左衛門大夫入道に安堵しているが、源某は直義方であった山名時氏の関係者であろう。
 元弘三年四月九日に後醍醐天皇は出雲高保に対して合戦の忠を行うべしとの軍勢催促状(綸旨)を与えている。大日本古文書では「充所ヲ欠ク、切断セラレシモノナラン」との注記を加えているが、巨勢宗国への綸旨と比較すれば「出雲高保」は地名ではなく、人名(充所)に他ならない。足利高氏が軍勢催促を行うのは四月末であり、なお旗幟を鮮明にしない国人が多い中で出された催促状である。「出雲」といえば国造家を連想するが、国造家は出雲氏の中で国造を世襲するようになった一流に過ぎず、伯耆守家との関係を有した杵築景春の一流も出雲氏であった。なぜこれが益田家に残ったかは不明であるが、出雲高保は出雲国の国人である。
 以上、船上山の合戦での軍忠により巨勢氏が但馬国内に恩賞を与えられたことをからすると、伯耆守一族もまた但馬国内に所領を与えられたことは確実である。但馬国知行国主には後醍醐の側近千種忠顕が補任されている。但馬国内で北条氏とその関係者によって所領を奪われ、建武政権下での所領の回復を願っていた但馬国人にとって、後醍醐が北条氏という重しを取り除いてくれたことは歓迎すべきことであったが、実際には北条氏とその関係者から後醍醐の寵臣に所領が移動しただけであり、彼等が足利尊氏に期待するようになったのは至極当然であった。

2018年8月11日 (土)

丹波毛利氏について

 宝治合戦後の毛利氏については、これまで毛利家文書に基づき述べられてきた単純化されたもの(所領は越後国南条と安芸国毛利庄、河内国加賀田郷のみ)とはかなり異なっていたことについてはすでに述べた。観応二年二月一〇日には足利義詮が久下貞重に丹波国河口庄内毛利掃部助跡を勲功の賞として与えている。当時は、尊氏・義詮派と直義派の間で合戦が続いており、義詮は直義派の掃部助の所領を闕所として味方の貞重に与えたのであろう。掃部助基浄の系図上の位置づけは不明である。
 この翌月に尊氏と直義の間で和睦が成立したが、それは直義派が優位な状況下で行われたため、義詮から貞重への毛利掃部助跡の給与は無効となったはずである。次いで、八月には尊氏が南朝に降伏して、直義派との戦闘が再開されると、直義は山名時氏等自派の守護大名を伴って北陸道へ逃れ、その後鎌倉に入ったが、戦闘は尊氏派が優位に立ち、翌観応三(文和元)年二月には尊氏が直義を殺害するに至った。
 一方、父時氏と異なり尊氏派であった山名師義が所領問題で京極道誉と対立し、八月には尊氏のもとを離れて伯耆国の父時氏と合流し、次いで出雲国や因幡国への軍事行動を展開し、これを制圧した。丹波国は尊氏派と時氏派の合戦の舞台となった。文和元年一〇月二五日には義詮が再び久下貞重に毛利掃部助基浄跡である河口庄に与え直している。一時は基浄が尊氏方に降参したことで、河口庄は基浄に返されたが、再び両派の対立が発生する中、基浄は山名時氏方となったと考えられる。その後丹波国では山名氏と幕府補任の丹波国守護仁木氏との間で対立が続いたが、貞治三年三月に時氏が上洛し幕府に合流した際に、丹波国守護は仁木氏から山名氏に交替しており、河口庄をめぐり久下氏は厳しい状況に置かれていたと想われる。  
 しかしその状況は時氏の死後、丹波国守護となった子の氏清が明徳の乱で敗死して没落したことで一変する。幕府は細川頼元を丹波国守護に補任し、その後、山名氏が丹波国守護となることはなかった。明徳の乱で山名時熈方として頼忠が討死し、その後はその子孫が山名氏家臣の首座を占めた垣屋氏も、本来は出雲土屋氏の一族で後醍醐天皇の隠岐脱出を助け、勲功の賞として得た丹波国宮田庄内垣屋を苗字の地としていたが、山名氏惣領の領国但馬を拠点として活動する。丹波毛利氏は明徳の乱で山名氏清方となり、丹波国内の所領を失ったと考えられる。

勲功の賞と苗字の地4

 出雲土屋氏の宗重が勲功の賞として獲得したとの説を示した丹後国筒河保は筒川庄とも表記され、浦島太郎伝説発祥の地として知られている。宇良神社所蔵の『続浦島子伝記』の巻末には「永仁二季甲午八月廿四日於丹州筒川庄福田村宝蓮寺如法道場依難背芳命不顧筆跡狼籍馳紫毫了」と記されている。文明一四年八月四日幕府奉行人奉書で二階堂山城大夫判官政行が由緒により筒川庄領家職を預け置かれている。鎌倉幕府政所執事二階堂氏の末裔で、父忠行は宝徳元年四月には伊勢貞国に替わって幕府政所執事に補任されている。政行は当時は将軍義尚の側近であった(古文書、大日本史料8-14)。
 嘉吉二年の宇良神社棟札には「地頭殿領家殿公文一円地頭殿二階堂行充」とみえる。行充の系図上の位置は不明だが、政行は地頭・領家を一族が兼帯していた筒川庄の領家職を預けられたことになる。次いで永正三年の同棟札には「地頭殿二階堂政行」と「代官三富修理行時」がみえる。三富行時については『宣胤卿記』永正一四年九月六日条にみえる。中御門宣胤は三富宗親に借りていた『増鏡」三册を返却するとともに、宗親の猶子行時宛の「玉手箱あけてはくる〻夜まてもうら嶋遠くおもひこそやれ」との和歌を送り、便があれば送ってほしいと伝えた。それは当時丹後国では大乱が続き、今年は越前・若狭国からの合力衆が入っており、行時の在所筒川が平穏かどうか心もとないことを想ったものであった。行時もまた二階堂氏の一族で、三富宗親(三宝院奉行ヵ)の猶子となっていたが、一方で二階堂氏領である筒川庄の代官となっていた。筒川庄(筒河保)については、鎌倉時代から領家・地頭兼帯の関東御領であり、それが故に後醍醐から土屋宗重に与えられたが、幕府優位の中で幕府御料所に組み込まれたものであろう。
 貞和二年一二月二八日に二階堂伯耆入道道本(行秀)が闕所とされた但馬国高田庄を与えられたが、高田庄は前年一二月に幕府奉行人雑賀民部六郎入道善乗に与えられており、道本は高田庄は闕所ではないので、代わりに備中国真壁庄を与えられることを求めている(玉燭宝典裏書、大日本史料6-11)。康永元年五月三〇日に足利直義が中原師右に今後は除目聞書を二階堂道本のもとに送ることを依頼しており、直義の側近的立場にあり、康永三年五番制引付の五番と同年三方方内談方の一番にもその名がみえており、室町幕府家臣となった二階堂氏に畿内近国で所領が与えられていたことがわかる。ただし鎌倉時代の所領との関係は不明である。
(補足)天文三年十一月七日幕府御服方料以下諸下行出所覚書(蜷川家文書)に「仕立方」については鵜川・筒川が難渋するので折紙で申付ていることが記され、この時点でも御料所であった。

2018年8月 8日 (水)

勲功の賞と苗字の地3

  加悦氏については伯耆国蚊屋庄と関係するとの説もあるようである。文和三年一〇月一四日に佐々木近江守秀綱跡に前年六月に秀綱が美濃国で討死したことに対して恩賞が与えられているが(佐々木家文書)、その中に城大曽祢跡である蚊屋庄が与えられている。大曽祢氏は鎌倉幕府有力御家人安達氏の一族と思われるが、戦国期に至るまで伯耆国で勢力を維持している。
 丹後国「加悦」についても現在は「かや」と読むが、応永二五年一〇月八日しんせう補任状(田中忠三郎氏所蔵文書)では「かゑ」と表記している。実相院領であるが、応永二五年までの地頭は二代将軍足利義詮の子満詮であった。まさに御料所に準じたものであった。また、名和氏一族の加悦氏はその後惣領名和氏と同様に肥後国へ移り、その家臣として続いており、加藤清正の家臣となった家もあった。現在もその子孫が熊本・鹿児島県などにみられる。
 長年の父行高の兄弟小三郎入道行貞の子信貞は建武三年六月に京六角猪熊で討死している。その弟長貞には「葦高江」と記されるが、比定地は不明である。信貞の子高貞には「使・春日部新判官」と記され、検非違使にも補任されている。丹後国志楽庄内にも春日部村があるが、丹波国春日部庄を与えられたのだろう。
 建武三年九月一二日足利尊氏書下によると、赤松貞範が荻野一族が度々下知に背き、赤松氏代官を寄せ付けないとして訴えたのをうけて、幕府が丹波国守護仁木伊賀守頼章に丹波国春日部庄地頭職の庄家に貞範代官を沙汰居らせる養命じている。円心の庶子貞頼は建武二年末の竹下合戦で建武政権を離脱して尊氏方となったことで、同庄地頭職を得たとする。春日部庄地頭職が北条氏・幕府関係者の所領であった可能性が高い。それが建武政権により伯耆守一族(加悦氏)に与えられたが、幕府はこれを没収して赤松氏に与えたのではないか。荻野氏は丹波国葛野庄を支配する近隣の国人である。伯耆守一族、赤松氏一族と国外の国人に春日部庄が与えられたことに対して、幕府方ではあるが不満があったのだろう。
 春日部庄内中山村は貞和二年一二月二八日には足利尊氏により丹波国安国寺(元光福寺)に寄附されたが、赤松貞範による押領が継続して行われていた。赤松氏は春日部庄内黒井村の地頭職については幕府による安堵を受けている。また、応永二五年までは春日部庄内に三代将軍義満の子義嗣の所領もあった(尊経閣文庫所蔵文書)。一方、南朝方の春日部高貞は畿内周辺で活動を続け、正平一〇年五月二一日に伊賀国内での山賊との戦いで討死している。

西国奉行伯耆守長年2

 建武三年二月八日には八木左衛門尉秀清が元弘三年に収公された本領遠江国初倉庄永郷内下司名并阿曽名の安堵を足利尊氏に求めて、尊氏の裏書を得ている。宝荘金剛院領初倉庄は伯耆守が拝領したと号して当知行していたが、伯耆守とは長年であろう。長年の個々の所領についてはほとんど史料が無いが、広範囲の国に広がっていたと考えられる。
 この時点では東国から正月に入京した尊氏方が、朝廷に奥州からこれを追って入京した北畠顕家軍が合流したことで苦戦し、一旦京都を蜂起して九州下向する時期である。秀清は尊氏とともに入京していたのだろ。長年が鰐淵寺南院衆徒に対して軍勢催促をしたのはこの時期であった。
 鰐淵寺への文書と同形式の長年催促状が二月三日に播磨近江寺衆徒に対しても出されている。直状ではなく「依仰執達如件」と後醍醐の以降を伝える形をとっている。こちらは原本ではなく写しで花押が写されていなかったが、後に長年の花押とは別のものが加えられているが、その時期・文言から正しい文書と考えられる。動乱により守護で尊氏方となったものが続出したために西国奉行を設置したのではなく、大山庄の問題のように、国衙・守護所では手に余るような問題を対処するために長年を西国奉行に補任したと考える。二月八日には当寺播磨国守護であったと考えられる新田義貞が播磨近江寺衆徒に対して尊氏ら凶徒が籠城する摩耶城攻撃に参加するように軍勢催促を行っており、長年は播磨国守護ではなかったことは明白である。すでにみたように、長年の一族は長年が守護・国司を兼帯していた伯耆・因幡のみならず、但馬・播磨・丹後にも恩賞として所領を得ていた。丹波国大山庄に隣接する宮田庄内(垣屋)も隠岐閥の土屋氏が与えられており、長年の一族領が丹波国内にもあった可能性は大きい。

西国奉行伯耆守長年1

 建武元年(一三三四)七月九日雑訴決断所牒では伯耆守長年(あえて名和は使用しない)と七郎入道に対して丹波国大山庄に対する先地頭以下の輩の濫妨を停止し、東寺雑掌を庄家に沙汰居らせるよう命じている(東寺百合文書)。一般的ケースでは丹波国衙と丹波国守護所に命令が出されるはずのものであるが、そうはなっていない。問題解決のため丹波国上使に宛てて出される場合もあるが、この場合はどうであろうか。また七郎入道とは誰であろうか。
 名和氏系図には長年の兄弟に竹万七郎入道氏高がしるされており、この人物の可能性がある。また、後に南北朝の動乱が始まったさいに、長年が出雲国鰐淵寺に対して尊氏・直義兄弟の追討を命じた軍勢催促状を出しているが、これについて鰐淵寺頼源が作成した文書目録では、西国奉行であった長年の発給文書としている。この時点では出雲国守護塩冶高貞は幕府方となっており、南朝がこれに替えて長年を出雲国守護に補任したためとも考えたが、問題は長年がいつの時点で西国奉行に補任されたかである。
 大山庄は東寺領で、承久の乱後は東国御家人中沢氏が地頭となり、両者の間で裁判も行われていた。幕府滅亡後の元弘三年七月二日には東寺からの訴えを受けて、地頭(中沢氏ヵ)の濫妨を止めて所務を全うすることを安堵する後醍醐天皇綸旨が出されている。同じ日には東寺領若狭国太良庄についても同内容の綸旨が脱されている。
 次いで九月二日には太良庄、備中国新見庄とともに大山庄地頭職を東寺に寄進する綸旨が出された。地頭職を没収して東寺に寄進したわけだが、前地頭側が反発して濫妨したことをうけて、二四日には丹波守に対して雑掌を庄家に沙汰居らせるように命じた綸旨が出されている。それにも関わらず前地頭の抵抗が続いたので、朝廷は西国奉行であり強制力を持つ長年に命じたのではないか。ただ、体制は未整備であり、長年から七郎入道に命じる形をとらず、長年の一族竹万七郎入道にも同時に命じたと考えられる。すでに述べたように竹万氏は「七万」が所在する播磨国桑原庄内を恩賞として得ていた。

2018年8月 3日 (金)

勲功の賞と苗字の地2

 系図によれば泰長は元弘三年閏二月に出雲国で自害し、その子高頼には「加悦太郎左衛門尉」との注記がある。泰長に「加悦」の注記をする系図一本もある。この苗字の地は丹後国加悦庄であろう。康正元年の丹後国諸庄郷保惣田数帳目録には加悦庄がみえ、田数一六三町八反二四〇歩、領主は実相院殿とある。実相院は天台宗の門跡であるが、二代将軍義詮の孫増詮が門跡となって以後、幕府との関係が強まっていた。これも反幕府方の所領が幕府領となり、幕府から実相院に寄進されたものであろう。父泰長が後醍醐のために命を落としたことで、その子高頼に大規模庄園加悦庄が恩賞として与えられたと思われる。
 康正元年の丹後国の所領には大石庄二一三町六反一五〇歩があり、半済により半分が幕府御料所、半分が京都の臨済宗寺院である常在光寺領となっている。これに対して名和氏系図には長年の父の兄弟に小次郎入道長村がおり、その子(長年の従兄弟)小次郎行村には「大石豊前権守」の注記がある。これに大石庄が徳治二年には執権金沢貞顕の子北条貞将領であることを踏まえると、行村が苗字の地としたのは丹後国大石庄とみてよかろう。
 土屋宗重の父宗行には系図に「土屋千原出雲権守」との注記がある。当初、「千原」が筒河保と同様に丹後国内にみえたのでこれを適当と考えたが、史料的裏付けがないので、但馬国北部で、岸田川の中・上流域を庄域とする二方庄(弘安八年の田数二五町九反半で国御家人が下司であった)内の千原が妥当であろう。二方庄はその後得宗領となり得宗被官安東高泰が代官として支配に当たっていた。岸田川の河口の両岸を庄域とするのが大庭庄(弘安八年の田数は七四町五反一一四歩)であり、そこには、名和長年の弟六郎行氏が苗字とした「三谷」(西岸)や新出の土屋・垣屋氏系図に一族の苗字の地としてみえる「福富」「和田」(東岸)が確認できる。勲功の程度で恩賞の規模にも違いがあろう。
 長年の弟長義の子長重には「大井太郎左衛門尉」との注記がある。播磨国土山庄は正安二年には得宗領で被官下山高盛が代官として支配に当たっていたが、その庄域は大井川と水尾川に挟まれた地域であった。この土山庄の全部ないしは一分が与えられたことにより「大井」と名乗ったと思われる。土山庄地頭職は建武三年に尊氏が播磨国広峯社神主に与えたが、神主の罪科により一四世紀末には祇園社執行に与えられた。
 同じく長年の弟弥五郎助高は元弘三年四月に死亡しているが、その子弥五郎高兼には「布施」「右京進・雅楽助」の注記がある。播磨国布施郷を与えられた可能性が高い。東側に隣接する桑原庄内には「竹万」がみえるが、長年の弟氏高には「竹万七郎入道」との注記がある。とりあえずはここまで。
(補足)佐倉歴博の庄園データベースではヒットしなかったが、応永十六年九月四日足利義持御判御教書により、赤松満則に、丹波国春日部庄内黒井村、播磨国作用庄内、五ヶ庄内、餝西餘部郷半分・神戸庄地頭職、伊川庄埴岡比条上下、多加庄等とならんで、播磨国竹万庄が頼則譲状に任せて安堵されている。現在の上郡町のJR上郡駅付近に比定できるが、この竹万庄が竹万氏高が与えられた所領であろう。応永二七年三月二〇日某院院領年貢・公事書上(尼崎市教育委員会所蔵文書、兵庫県史中世史料編九)には赤松氏からの寄進分として播磨国竹万庄栗原村(惣田数一四町二段二〇代一八歩)がみえる。安室川とその支流域が竹万庄で、栗原村は支流梨ヶ原川流域にある。歴博のデータベースでは安室庄としてみえた。また。大井氏は伯耆国八橋郡内大井下郷、三谷氏は伯耆国久保田庄内村三谷が苗字の地である可能性がある。いずれにせよ、勲功の地である。

勲功の賞と苗字の地1

 出雲佐々木氏の有力な一族である富田氏の庶子(惣領の四郎に対して六郎を名乗る)が後醍醐天皇から恩賞として伯耆国羽田井を与えられたため、羽田井氏と呼ばれた。同様に、船上山の合戦で勲功をあげた土屋宗重も恩賞として丹後国筒河保を得た故に、系図には「筒河三郎左衛門尉」と記された。本来ならば、一定期間その所領を支配した後に、その所領名が苗字の地となるが、それが当てはまらない例があることになる。ただし、実際に「羽田井」や「筒河」と記された一次史料は確認できない。両者とも反幕府方となったこともあって、動乱以降も継続してその地を支配することはできなかったと思われる。にもかかわらず系図には羽田井や筒河と記されている。逆に言えば、系図の苗字の記載から恩賞として得た所領を推定できる。
 土屋宗重が恩賞として与えられたのは丹後半島北東端にある筒河保で、対岸には若狭国を臨んでいる。康正元年の丹後国諸庄郷保惣田数帳目録には田数三四町四反五五歩で幕府御料所であることが記されている。得宗領等北条氏関係者の所領や幕府領(関東御領)が建武政権により没収されて、倒幕に貢献した人々に与えられ、動乱開始後、それらの人々の多くは反幕府方(南朝方)となったが、幕府方が優位に立つ中、それらの人々の所領は没収されて幕府御料所となるというのが典型的パターンであろう。筒河保が北条氏領等であったことを示す史料はないが、その可能性は高いのではないか。
 同様の事例がないか、検討してみる。名和長年についても、本来は伯耆国の有力御家人である長田氏の一族であったことしかわからず、伯耆国内の複数の所領の地頭であった可能性は低いのではないか。それが恩賞として名和庄を得、名和氏を名乗った可能性もある。
 『舟上記』では『古本伯耆巻』の成田小三郎入道に対して、成田小三郎が警固に当たっていた武士の中の長年の弟悪四郎泰長を招いて都付近の情報を聞いた上で、後醍醐のもとに伴って前後策を協議している。次いで富士名三郎義綱を語らったところ、義綱が警固の当番の時に後醍醐を脱出させることとなり、泰長は出雲国守護塩冶高貞を説得するために出雲国に渡った。しかし高貞は協力を拒否して泰長を追い出し、六波羅探題からの後醍醐の隠岐脱出計画の関係者を取り締まれとの命に基づいて大社国造の神人が泰長を捕らえ、泰長は出雲国で自害してしまった。この報告を聞いて危機意識をもった後醍醐は富士名を塩冶高貞のもとに派遣したが、高貞は義綱を押し込めてしまった。
 『古本伯耆巻』では、長年と結ぶ方針が出された際に偶々、長年の弟村上六郎行氏がおり長年の説得を依頼されたが、海が荒れて出雲国への渡海ができず、道前の千振島に渡ったが再び風により足止めをくったことが記されいる。こちらには泰長は登場しない。『太平記』には隠岐脱出の時点では富士名義綱のみで名和氏関係者は登場しないが、一人は出雲国守護、一人は長年の説得のもとを訪れた(ようとした)という『舟上記』「古本伯耆巻』のそれぞれが事実を反映した記述であろう。

« 2018年7月 | トップページ | 2018年9月 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ