koewokiku(HPへ)

« 皆合と阿刀別符の関係 | トップページ | 勲功の賞と苗字の地9 »

2018年8月22日 (水)

勲功の賞と苗字の地8

 元弘三年五月七日に六波羅探題が滅ぼされた後も幕府方と反幕府方の戦闘は続いていた。五月一六日には千種忠顕袖判の軍勢催促状が安芸国人熊谷小四郎直経宛に出されている。直経は閏二月末から四月二日にかけては幕府方として河内国楠木城や千岩屋城の攻撃に参加していたが、四月二〇日には後醍醐天皇綸旨により一族の直重に対して、軍勢催促状が出されている。また、四月末には船上山攻撃のため派遣されていた足利高氏が、伯耆国から勅命を受けたとして、全国の国人に軍勢催促を行っている。
 そうした中で直経も立場を変えて倒幕方の催促状に応じたことになる。直経代直久軍忠状をみると、それ以前に四ヶ国凶徒退治の後醍醐天皇綸旨が出され、大将熊谷直清のもとで直久が軍忠をつんでいる。五月一二日には丹後国熊野郡浦家庄に馳向かい二階堂因幡入道城郭を追罸し、翌一三日には浦富保地頭が逐電した跡の城郭を焼き払い、次いで木津郷の三浦安芸前司の城を破却、さらには道後郡丹波郷の後藤佐渡入道の城を破却している。以下も同様だが、六波羅探題関係者の所領と城の接収を行っている。
 一四日には木津庄と船木庄北方の城を破却し、一五日には同東方の違勅人が逐電したため、その城郭を焼き払い、次いで丹波郡の松田平内左衞門の城郭二ヶ所と光安地頭佐々木三郎判官代田奈町六郎の城を焼いている。一日おいて一七日には大石庄内三薗の城郭を破壊し、都合一一ヶ所の追討に従事したとして軍忠状を提出し、証判を得ている。ここにみえる大石庄が伯耆守長年の従兄弟である行村に与えられ、行村はこれを苗字の地としたのだろう。
 丹後国大石庄は頼朝以来、九条家領であった時も一条家領であった時にも地頭請所であった。これに対して弘安年間頃、新たな庄園領主からは請所の停止の方針が打ち出され、正地頭へ伝えることとなった。問題は地頭が誰かであるが、正中二年一一月日大江顕元書状によると大石庄は将軍の衣装等を管轄する御物奉行の料所とあり、関東御領の一つとして大江氏が給人となっていたと思われる。
 大江顕元は亡父覚一から伊予国久米郡惣政所と野口保地頭代を譲られたとして、安堵を求めている。伊予国は宇都宮氏が守護を代々世襲しており、顕元はそのもとでの代官なのであろう。嘉暦四年七月には大江顕元(江左衞門)の代官である称名寺雑掌左衞門尉兼久が、下地中分が行われた因幡国千土師郷東方上村三分一を請取っている。顕元は様々な形で幕府関係の所領の支配にあたっていたのであろう。

« 皆合と阿刀別符の関係 | トップページ | 勲功の賞と苗字の地9 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 勲功の賞と苗字の地8:

« 皆合と阿刀別符の関係 | トップページ | 勲功の賞と苗字の地9 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ