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2018年8月14日 (火)

勲功の賞と苗字の地7

 暦応二年一〇月二四日には遠江国守護仁木義長が、初倉庄内八幡宮別当職について浄智寺蔵雲庵雑掌の申請に基づき遵行したが、依田兵部丞が濫妨したとして、守護代に対して那珂彦三郎左衞門尉とともに下地を雑掌に付けて請取状を進めるように命じている。
 ②により、遠江国初倉庄の地頭は北条高時で、得宗領であったことがわかる。八木氏は惣地頭高時のもとので庄内吉永郷の地頭であったと思われるが、初倉庄地頭職全体が収公され、その全部ないしは一部が伯耆守長年に与えられたのであろう。初倉庄は大井川河口から下流域の両岸の地域で、長年の嫡子義高に与えれた肥後国八代庄と同様に水運の拠点となる場所である。
 杵築景春について補足すると、その父は杵築五郎太郎景年であった。前述のように杵築太郎が建武元年には因島庄(後醍醐が得宗領を没収して浄土寺に寄進)に濫妨して悪党と呼ばれ、建武三年六月五日には幕府方の平賀共兼によって討ち取られているが、景年であろう。朝山氏、佐々布氏、古志氏等が倒幕の恩賞として備後国内に所領を得ていたが、杵築氏も同様に所領を得る中で、周辺の所領への干渉を行っていたのであろう。同様のことは遠江国でもみられた可能性が高い。初倉庄地頭職は室町幕府下では守護領となっていたと思われる。
 これまでの分析を踏まえれば、伯耆国「名和庄」(関係史料は全くなし)を与えられたことで長田長高が名和長年(後醍醐が名付)となったとすべきである。杵築太郎景年についても長年にあわせて改名したものだろう。
付記 大原郡阿用の地に「福富」「河井」の地名があるが、阿用を含む大東庄南は鎌倉期には飯沼氏領で、飯田・遠所・養賀が土屋氏領、大東庄北が千葉神保氏領であった。倒幕の恩賞として阿用が土屋氏領となった。(飯田と大東庄北の地頭名を初出から修正)

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