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2018年8月12日 (日)

勲功の賞と苗字の地5

 元弘三年三月四日、後醍醐天皇は伯耆国会見郡の巨勢宗国に対して、合戦の忠があったとして恩賞を与えることを約束した綸旨を与えた。船上山の合戦の直後のもので、同種の綸旨としては現存する最も早い時期のものである。会見郡には紀姓で伯耆守家の外戚内河氏女子を妻とする三能為成がいた。為成は某年一二月一一日に二一才で死亡している。その妻は正平六年(一三五一)に六一才で死亡しおり、正応四年(一二九一)の生まれで、子為基は正平二〇年に五九才で死亡しており、徳治二年(一三〇七)の生まれである。伯耆守とともに後醍醐方として戦ったのは子の為基で、船上山の合戦の時点で二七才であった。為基が恩賞として得た所領がどこであったかは不明だが、与えられたことは確実であろう。
 巨勢氏は元弘三年五月五日に但馬国亀別宮地頭職と土田郷一分地頭職を家盛が与えられている。この時点で後醍醐はなお伯耆国にいた。弘安八年の大田文では亀別宮が一二町六段、土田郷(石禾上郷)一分方が一八町九段二七二歩であり、両方を併せると田数三〇町余である。建武政権の崩壊によりその支配は不可能となったと思われるが、建武五年六月二日に幕府方守護山名時氏が相見八幡に伯耆国保田庄内三谷村地頭職を寄進しているように、相見氏の中には南朝方ではなく、幕府方となったものがあった。観応二年一二月二七日に源某が亀別宮と土田郷一分地頭職を由緒の地だとして相見左衛門大夫入道に安堵しているが、源某は直義方であった山名時氏の関係者であろう。
 元弘三年四月九日に後醍醐天皇は出雲高保に対して合戦の忠を行うべしとの軍勢催促状(綸旨)を与えている。大日本古文書では「充所ヲ欠ク、切断セラレシモノナラン」との注記を加えているが、巨勢宗国への綸旨と比較すれば「出雲高保」は地名ではなく、人名(充所)に他ならない。足利高氏が軍勢催促を行うのは四月末であり、なお旗幟を鮮明にしない国人が多い中で出された催促状である。「出雲」といえば国造家を連想するが、国造家は出雲氏の中で国造を世襲するようになった一流に過ぎず、伯耆守家との関係を有した杵築景春の一流も出雲氏であった。なぜこれが益田家に残ったかは不明であるが、出雲高保は出雲国の国人である。
 以上、船上山の合戦での軍忠により巨勢氏が但馬国内に恩賞を与えられたことをからすると、伯耆守一族もまた但馬国内に所領を与えられたことは確実である。但馬国知行国主には後醍醐の側近千種忠顕が補任されている。但馬国内で北条氏とその関係者によって所領を奪われ、建武政権下での所領の回復を願っていた但馬国人にとって、後醍醐が北条氏という重しを取り除いてくれたことは歓迎すべきことであったが、実際には北条氏とその関係者から後醍醐の寵臣に所領が移動しただけであり、彼等が足利尊氏に期待するようになったのは至極当然であった。

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