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2018年8月11日 (土)

勲功の賞と苗字の地4

 出雲土屋氏の宗重が勲功の賞として獲得したとの説を示した丹後国筒河保は筒川庄とも表記され、浦島太郎伝説発祥の地として知られている。宇良神社所蔵の『続浦島子伝記』の巻末には「永仁二季甲午八月廿四日於丹州筒川庄福田村宝蓮寺如法道場依難背芳命不顧筆跡狼籍馳紫毫了」と記されている。文明一四年八月四日幕府奉行人奉書で二階堂山城大夫判官政行が由緒により筒川庄領家職を預け置かれている。鎌倉幕府政所執事二階堂氏の末裔で、父忠行は宝徳元年四月には伊勢貞国に替わって幕府政所執事に補任されている。政行は当時は将軍義尚の側近であった(古文書、大日本史料8-14)。
 嘉吉二年の宇良神社棟札には「地頭殿領家殿公文一円地頭殿二階堂行充」とみえる。行充の系図上の位置は不明だが、政行は地頭・領家を一族が兼帯していた筒川庄の領家職を預けられたことになる。次いで永正三年の同棟札には「地頭殿二階堂政行」と「代官三富修理行時」がみえる。三富行時については『宣胤卿記』永正一四年九月六日条にみえる。中御門宣胤は三富宗親に借りていた『増鏡」三册を返却するとともに、宗親の猶子行時宛の「玉手箱あけてはくる〻夜まてもうら嶋遠くおもひこそやれ」との和歌を送り、便があれば送ってほしいと伝えた。それは当時丹後国では大乱が続き、今年は越前・若狭国からの合力衆が入っており、行時の在所筒川が平穏かどうか心もとないことを想ったものであった。行時もまた二階堂氏の一族で、三富宗親(三宝院奉行ヵ)の猶子となっていたが、一方で二階堂氏領である筒川庄の代官となっていた。筒川庄(筒河保)については、鎌倉時代から領家・地頭兼帯の関東御領であり、それが故に後醍醐から土屋宗重に与えられたが、幕府優位の中で幕府御料所に組み込まれたものであろう。
 貞和二年一二月二八日に二階堂伯耆入道道本(行秀)が闕所とされた但馬国高田庄を与えられたが、高田庄は前年一二月に幕府奉行人雑賀民部六郎入道善乗に与えられており、道本は高田庄は闕所ではないので、代わりに備中国真壁庄を与えられることを求めている(玉燭宝典裏書、大日本史料6-11)。康永元年五月三〇日に足利直義が中原師右に今後は除目聞書を二階堂道本のもとに送ることを依頼しており、直義の側近的立場にあり、康永三年五番制引付の五番と同年三方方内談方の一番にもその名がみえており、室町幕府家臣となった二階堂氏に畿内近国で所領が与えられていたことがわかる。ただし鎌倉時代の所領との関係は不明である。
(補足)天文三年十一月七日幕府御服方料以下諸下行出所覚書(蜷川家文書)に「仕立方」については鵜川・筒川が難渋するので折紙で申付ていることが記され、この時点でも御料所であった。

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