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2018年8月24日 (金)

大葦氏と山名氏の関係2

 正平一〇年三月一七日の守護奉行人奉書(端裏には大葦殿渡状と記す)はこのような状況で出されたもので、大葦氏を含めて時氏のそれまでの領国支配では登場しない人物であり、丹後国は貞治三年に山名氏が幕府に復帰した際に守護に補任された師義が実効支配を行っていたと思われる。師義のもとで登用されたのが大葦土佐守信光であった。
 大葦信光は後醍醐への勲功により加賀庄に隣接する北野末社(大葦庄)を与えられた一族に属していた。丹後国内にも恩賞の地を得、動乱開始後は早い時期に幕府方に転じ、暦応四年から観応元年まで丹後守護であった山名氏との関係を深めた。時氏の嫡子師義に登用され、その代官となった。
 師義は応安五年一二月には但馬守護に補任され、守護代として大葦入道が下向した。これが丹後守護代であった信光であり、前後して丹後守護は師義の嫡子義幸(山名五郎→民部少輔)に交替し、守護代も大葦入道の子と思われる土屋刑部左衛門尉(遠江守信貞)に代替わりした。
 師義は弟時義を養子として山名氏惣領の地位と但馬守護を譲り、永和二年三月に死亡した。時義の守護代は土屋氏と同様出雲国出身の布志名宗清(善勝)が務めたが、後には時義の官領となった。師義の嫡子義幸が病気がちであり、至徳元年には弟満幸が兄に代わりに侍所頭人を務め、翌年には丹後守護となっている。同時に守護代も土屋土佐守に交替し、土屋前遠江守信貞は備後国で所領の打渡を行っている。至徳三年九月二三日には満幸が杵築大社に所領寄進を行っており、出雲守護が兄義幸から交替したことがわかる。一方、翌年には義幸が丹後守護に復帰しており、佐藤氏が推測するように、満幸の出雲守護補任時に丹後守護を義幸に返したと思われる。ただそれも一時的なことで、再び満幸が丹後国守護に復帰し、明徳の乱を迎える。この時期の満幸の丹後守護代は大葦次郎左衛門尉宗信であった。宗信は明徳の乱で討死した満幸の家臣である土屋党五三名の中心であった。
 大葦氏は出雲土屋氏の一族であるが、出雲国内では動乱の中で反幕府方となった一族が多かったためか、満幸のもとで守護代に起用されたのは、高貞討伐後、塩冶氏を継承し、京極氏の守護代と務め、幕府奉公衆にもなった高貞弟時綱流=後塩冶氏であった。山名氏領国の守護代は守護本人との関係で起用されることが多く、守護の交替で守護代も変わることが多かった。

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