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2018年8月 8日 (水)

西国奉行伯耆守長年2

 建武三年二月八日には八木左衛門尉秀清が元弘三年に収公された本領遠江国初倉庄永郷内下司名并阿曽名の安堵を足利尊氏に求めて、尊氏の裏書を得ている。宝荘金剛院領初倉庄は伯耆守が拝領したと号して当知行していたが、伯耆守とは長年であろう。長年の個々の所領についてはほとんど史料が無いが、広範囲の国に広がっていたと考えられる。
 この時点では東国から正月に入京した尊氏方が、朝廷に奥州からこれを追って入京した北畠顕家軍が合流したことで苦戦し、一旦京都を蜂起して九州下向する時期である。秀清は尊氏とともに入京していたのだろ。長年が鰐淵寺南院衆徒に対して軍勢催促をしたのはこの時期であった。
 鰐淵寺への文書と同形式の長年催促状が二月三日に播磨近江寺衆徒に対しても出されている。直状ではなく「依仰執達如件」と後醍醐の以降を伝える形をとっている。こちらは原本ではなく写しで花押が写されていなかったが、後に長年の花押とは別のものが加えられているが、その時期・文言から正しい文書と考えられる。動乱により守護で尊氏方となったものが続出したために西国奉行を設置したのではなく、大山庄の問題のように、国衙・守護所では手に余るような問題を対処するために長年を西国奉行に補任したと考える。二月八日には当寺播磨国守護であったと考えられる新田義貞が播磨近江寺衆徒に対して尊氏ら凶徒が籠城する摩耶城攻撃に参加するように軍勢催促を行っており、長年は播磨国守護ではなかったことは明白である。すでにみたように、長年の一族は長年が守護・国司を兼帯していた伯耆・因幡のみならず、但馬・播磨・丹後にも恩賞として所領を得ていた。丹波国大山庄に隣接する宮田庄内(垣屋)も隠岐閥の土屋氏が与えられており、長年の一族領が丹波国内にもあった可能性は大きい。

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