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2018年8月22日 (水)

勲功の賞と苗字の地10

  隠岐閥の人々に後醍醐天皇が与えた所領は、これまでみてきた但馬・播磨・丹後・丹波以外にも、船上山のあった伯耆と隣国因幡にもあったであろう。伯耆守に補任され長年の名を与えられた長田長高が伯耆国奈和庄を得たがために、後世に名和氏と名乗るようになったとの仮説も提示した。倒幕という目標は未だ達成されておらず、それが実現した時点で正式な論功行賞が行われなければならない。そのため、当初の行賞では、本主としては北条氏等が選ばれ、地域的にも倒幕に向けて掌握すべき伯耆から都へつながる地域の所領が隠岐閥の人々に与えられた。とはいえ、正式な行賞を行った際には全体のバランス調整のため、見直しが行われたと思われる。雑訴決断所を構成する寄人についても、元弘三年九月に一旦決定したが、一年後の建武元年八月に拡大・再編成されている。
 隠岐閥の一人布志名雅清が若狭国守護に補任されたのは元弘三年八月三日であった。同時に若狭国内に複数の所領を得たと思われるが、史料が残っているのは名田庄惣庄のみである。守護代信景をはじめとして、村山弥三郎、蔵谷左衞門三郎、和久利、浅井弁阿闍梨など多数の部下を引き連れてであるが、それ以前の部下との関係は不明である。そして守護関係者は周辺所領の押領を行い、太良庄関係者(東寺・百姓)、大徳寺から訴えられている。同様に、建武二年二月には、北条氏領が闕所として東寺に寄進された因島に対して、杵築太郎以下の悪党が濫妨をして訴えられている。杵築太郎については、建武三年七月六日の軍忠状の中で幕府方の平賀共兼が「討取伯耆守長年一族杵築太郎」と述べており、伯耆守家との間に姻戚関係を結んでいたと思われる。備後国内には守護に補任された朝山出雲権守景綱とその同族と思われる佐々布氏、塩冶氏一族の古志氏が所領を得ていたが、杵築太郎もまた備後国内で恩賞の地を得ていたと思われる。
 この時期の軍忠状と綸旨としては日御崎神社とその社家小野家に残っている日置氏関係のものがあるが、他の後醍醐天皇綸旨と内容・形式が異なることから、後になった作成されたものである。ただ、そこに記された情報については、事実に基づくものもある。建武三年正月日大野庄内加冶屋村惣領三崎次郎日置政高軍忠状には、建武二年一二月二一日に、建武政権の美作国守護であった富田秀貞とともに美作国を発行し、正月一一日に京都に攻め入ったことを記すが、この部分は事実に基づくものと思われる。富田秀貞もまた美作国内の恩賞を得ていたはずである。ただし、それを受ける形で出された足利尊氏の感状と当知行を安堵する袖判下文については、当時の尊氏の文書発給状況と明らかに異なっており、後世に偽作されたものである。

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