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2018年8月24日 (金)

大葦氏と山名氏の関係1

 山名氏は建武四年七月二三日に伯耆守護在任が確認できる時氏以降、その領国を拡大し、明徳の乱の直前には一族で一一ヶ国の守護となり六分一衆と呼ばれた。その中で、実務に当たった守護代について確認しつつ、標題の問題を整理する。
 山名時氏の守護代が小林国範であったことはすでに述べた通りである。出雲国淀新庄に関する暦応四年四月八日引付頭人奉書を受けて、九月七日に時氏が遵行を実施した旨の請文を提出している。三月一四日には加賀庄について幕府から守護へ命令が出されたが、その直後に守護塩冶高貞が謀叛の疑いで逐電したため、八月二三日に朝山肥前守景連が報告しており、朝山氏の代行を経て、高貞討伐の功により、伯耆守護山名時氏が出雲守護に補任された。時を同じくして時氏は一〇月四日には丹後国志楽庄地頭職の遵行を命じられており、丹後守護にも補任された。出雲守護は康永二年には京極道誉に交替している。丹後守護については佐藤進一氏『室町幕府守護制度の研究』では康永二年一一月六日の遵行命令までが確認できるとされているが、その後も観応元年五月二八日に山名道静(時氏)の奉行人二名が連署で守護代箕浦四郎左衛門入道に、幕府の今月三日の奉書に任せて河上本庄領家職の下地を雑掌に沙汰付け、報告することを命じている。
 奉書とは高師直が奉じており、山名袈裟房殿宛になっている。時氏の子と思われるが、実際に守護権を行使したのは時氏とその家臣であった。箕浦入道は六月七日付で箕浦八郎に沙汰付けの実効と請取状の提出を命じている。次いで、七月二日には源長俊・大江頼高連署打渡状と僧妙運の請取状が提出されている。そして七月二八日には幕府からの軍勢催促を時氏が箕浦入道に伝え、二九日付で入道が加佐郡地頭御家人中に命じた文書が残っている。
 観応の擾乱の時期であり、康永二年と観応元年の間に一旦守護が交替した可能性もあるが、観応二年四月一三日に丹後守護の在任が確認できるのは石見国大将軍から転じた上野頼兼である。時氏と頼兼はともに直義派であり、政変に伴う交替ではない。翌三年八月八日には高師詮が丹後守護に在任しているが、これは擾乱で尊氏が直義に勝利した結果であった。ただし、この直後に尊氏のもとに残留していた時氏の嫡子師義が京極道誉との間の所領をめぐる対立から父時氏のいる伯耆に戻り、山陰道の大半を実効支配するようになった。

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