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2018年8月 3日 (金)

勲功の賞と苗字の地1

 出雲佐々木氏の有力な一族である富田氏の庶子(惣領の四郎に対して六郎を名乗る)が後醍醐天皇から恩賞として伯耆国羽田井を与えられたため、羽田井氏と呼ばれた。同様に、船上山の合戦で勲功をあげた土屋宗重も恩賞として丹後国筒河保を得た故に、系図には「筒河三郎左衛門尉」と記された。本来ならば、一定期間その所領を支配した後に、その所領名が苗字の地となるが、それが当てはまらない例があることになる。ただし、実際に「羽田井」や「筒河」と記された一次史料は確認できない。両者とも反幕府方となったこともあって、動乱以降も継続してその地を支配することはできなかったと思われる。にもかかわらず系図には羽田井や筒河と記されている。逆に言えば、系図の苗字の記載から恩賞として得た所領を推定できる。
 土屋宗重が恩賞として与えられたのは丹後半島北東端にある筒河保で、対岸には若狭国を臨んでいる。康正元年の丹後国諸庄郷保惣田数帳目録には田数三四町四反五五歩で幕府御料所であることが記されている。得宗領等北条氏関係者の所領や幕府領(関東御領)が建武政権により没収されて、倒幕に貢献した人々に与えられ、動乱開始後、それらの人々の多くは反幕府方(南朝方)となったが、幕府方が優位に立つ中、それらの人々の所領は没収されて幕府御料所となるというのが典型的パターンであろう。筒河保が北条氏領等であったことを示す史料はないが、その可能性は高いのではないか。
 同様の事例がないか、検討してみる。名和長年についても、本来は伯耆国の有力御家人である長田氏の一族であったことしかわからず、伯耆国内の複数の所領の地頭であった可能性は低いのではないか。それが恩賞として名和庄を得、名和氏を名乗った可能性もある。
 『舟上記』では『古本伯耆巻』の成田小三郎入道に対して、成田小三郎が警固に当たっていた武士の中の長年の弟悪四郎泰長を招いて都付近の情報を聞いた上で、後醍醐のもとに伴って前後策を協議している。次いで富士名三郎義綱を語らったところ、義綱が警固の当番の時に後醍醐を脱出させることとなり、泰長は出雲国守護塩冶高貞を説得するために出雲国に渡った。しかし高貞は協力を拒否して泰長を追い出し、六波羅探題からの後醍醐の隠岐脱出計画の関係者を取り締まれとの命に基づいて大社国造の神人が泰長を捕らえ、泰長は出雲国で自害してしまった。この報告を聞いて危機意識をもった後醍醐は富士名を塩冶高貞のもとに派遣したが、高貞は義綱を押し込めてしまった。
 『古本伯耆巻』では、長年と結ぶ方針が出された際に偶々、長年の弟村上六郎行氏がおり長年の説得を依頼されたが、海が荒れて出雲国への渡海ができず、道前の千振島に渡ったが再び風により足止めをくったことが記されいる。こちらには泰長は登場しない。『太平記』には隠岐脱出の時点では富士名義綱のみで名和氏関係者は登場しないが、一人は出雲国守護、一人は長年の説得のもとを訪れた(ようとした)という『舟上記』「古本伯耆巻』のそれぞれが事実を反映した記述であろう。

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