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2018年8月 8日 (水)

西国奉行伯耆守長年1

 建武元年(一三三四)七月九日雑訴決断所牒では伯耆守長年(あえて名和は使用しない)と七郎入道に対して丹波国大山庄に対する先地頭以下の輩の濫妨を停止し、東寺雑掌を庄家に沙汰居らせるよう命じている(東寺百合文書)。一般的ケースでは丹波国衙と丹波国守護所に命令が出されるはずのものであるが、そうはなっていない。問題解決のため丹波国上使に宛てて出される場合もあるが、この場合はどうであろうか。また七郎入道とは誰であろうか。
 名和氏系図には長年の兄弟に竹万七郎入道氏高がしるされており、この人物の可能性がある。また、後に南北朝の動乱が始まったさいに、長年が出雲国鰐淵寺に対して尊氏・直義兄弟の追討を命じた軍勢催促状を出しているが、これについて鰐淵寺頼源が作成した文書目録では、西国奉行であった長年の発給文書としている。この時点では出雲国守護塩冶高貞は幕府方となっており、南朝がこれに替えて長年を出雲国守護に補任したためとも考えたが、問題は長年がいつの時点で西国奉行に補任されたかである。
 大山庄は東寺領で、承久の乱後は東国御家人中沢氏が地頭となり、両者の間で裁判も行われていた。幕府滅亡後の元弘三年七月二日には東寺からの訴えを受けて、地頭(中沢氏ヵ)の濫妨を止めて所務を全うすることを安堵する後醍醐天皇綸旨が出されている。同じ日には東寺領若狭国太良庄についても同内容の綸旨が脱されている。
 次いで九月二日には太良庄、備中国新見庄とともに大山庄地頭職を東寺に寄進する綸旨が出された。地頭職を没収して東寺に寄進したわけだが、前地頭側が反発して濫妨したことをうけて、二四日には丹波守に対して雑掌を庄家に沙汰居らせるように命じた綸旨が出されている。それにも関わらず前地頭の抵抗が続いたので、朝廷は西国奉行であり強制力を持つ長年に命じたのではないか。ただ、体制は未整備であり、長年から七郎入道に命じる形をとらず、長年の一族竹万七郎入道にも同時に命じたと考えられる。すでに述べたように竹万氏は「七万」が所在する播磨国桑原庄内を恩賞として得ていた。

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