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2018年7月 7日 (土)

基隆流と出雲国

 藤原基隆は院近臣の有力者が国守となる、伊予・播磨など大国の国守となるとともに、その子が国守を務める国の知行国主となった。
一二世紀初めは基隆と弟家保、子の隆頼が国守であった。次いで家保がその地位を失った代わりに嫡子忠隆が天仁二年(一一〇九)に丹波守となった。
 保安元年(一一二〇)には子経隆が国守となり四ヶ国となったが、四年目に隆頼の国守が失われ、三ヶ国に戻った。そして大治五年(一一三〇)に基隆が公卿になると、播磨守は家成に交替して二ヶ国となった。久安四年(一一四八)に忠隆が公卿となると、弟経隆に加えて嫡子信頼と基成、家頼が国守となり一時的に四ヵ国を回復した。しかし長続きはせず、仁平三年(一一五三)末に経隆が出雲守を、基成が陸奥守を退任すると二ヵ国となった。以前のように安定して優先的に一期四年や二期八年を務める状況は失われた。
 このような地位の低下に歯止めをかけたのが、信頼に対する後白河の寵愛であった。信頼は弟信説と信家を国守として武蔵国と長門国知行国主となったが、平治の乱(一一五九)で敗死すると、基隆流の人物が国守である国は消滅してしまった。基隆流の衰退は平治の乱ではなく、それ以前から進行していた。その原因として、基隆とその子達が安定的に優先的に国守と知行国の座を確保できたのは、待賢門院-崇徳流との関係があった。嫡子忠隆に顕隆娘とその子顕頼娘を室として迎え、後者との間に生まれた信頼も顕頼娘を室とした。顕隆流と清隆流との間にも婚姻関係が結ばれていたように、待賢門院-崇徳院を支えたのは待賢門院の兄弟=閑院流と顕隆流・基隆流・清隆流であった。顕頼流と清隆流は一方で美福門院-後白河流との関係を確保していたため、保元の乱後も安定して国守・知行国主の座を確保していったが、。
  一二世紀には三度の杵築大社造営・遷宮が行われており、天仁の遷宮は顕隆の嫡子顕頼が、久安の遷宮は清隆の嫡子光隆が、研究の遷宮は顕隆の孫朝方により行われ、基隆流の影が薄い気がするが、基隆流は(A)永久二年から保安二年までの七年間は基隆-子隆頼が、(B)大治三年から五年までの二年間は基隆-子経隆が、(C)久安二年一二月から久寿元年正月までの七年間は忠隆-弟経隆と一六年間にわたって出雲国を支配してきた。杵築大社領が神主内蔵忠光により領家藤原資憲、本家崇徳上皇に寄進されて立券されたのは(C)の時期であった。これに対して清隆流は(B)の跡を受ける形で保延四年一二月から久安二年一二月までの二期八年間、清隆-子光隆が支配した。保元の乱で待賢門院-崇徳院が勢力を失った後も、顕隆の孫朝方-子朝時・朝定・朝経と朝方弟朝雅が後白河院の近臣として約五〇年間支配した。

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