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2018年7月 6日 (金)

出雲守顕頼と隆頼

 顕隆の嫡子顕頼も天仁元年(一一〇八)正月から、途中重任して七年間に亘り出雲守に在任した。一五才であり、実際の支配を行った知行国主は祖父為房ないしは父顕隆であろうと推定されている。顕頼の後任は院近臣藤原基隆の子隆頼で、永久二年(一一一四)一二月から七年間在任した。顕頼は隆頼と相博して三河守に遷任している。隆頼は藤原知房の娘が母で生年は不明であるが、年少で補任されたと思われる三河守と同様、父基隆が知行国主であったと思われる。顕頼の前任者で一期四年出雲守を務めた家保は基隆の同母弟である。基隆は嫡子忠隆の室に、顕隆の娘とその嫡子顕頼の娘を迎え、後者を母とするのが後白河院の寵臣として平治の乱を引き起こした信頼である。前者を母とする隆教がいたが、出世するまでに死亡した可能性が高い。基隆-忠隆は大国の国守を歴任して晩年に非参議従三位として公卿となったが、孫信頼は初めて参議に進んだ。
 隆頼は保安二年(一一二一)一二月に藤原憲方と相博して周防守に遷任した。後任藤原憲方もまた七年間在任したが、為房の孫(為隆子)であり、父為隆が知行国主であったと思われる。そして大治三年一二月に国守となったのは基隆の庶子で、嫡子忠隆の同母弟である経隆であった。これも幼少であり基隆が知行国主として実権を握った。ただし経隆は二年後の大治五年一〇月に讃岐守に遷任した。
 藤原経隆は白河・鳥羽両院の近臣基隆の子である。基隆の曾祖父経輔は藤原道長と摂関の座を争った伊周の同母弟隆家の子経輔で、権大納言にまで進んだが、祖父師家が公卿となる前に三二才で死亡したため、父家範も国司を歴任したが殿上人に止まり、母方の祖父家房も同様であった。それが基隆の母家子が堀河天皇の乳母であったことで登用され、二〇才であった寛治八年(一〇九四)に美作守となって以降、公卿(従三位修理大夫)に進んだ大治五年(一一三〇)まで、播磨・伊予・播磨・讃岐・播磨と五回の遷任を行った。大国の受領としての経済力を背景として成功を重ね、弟家保と異なり、堀河の死後も白河・鳥羽両院に重用された。同母弟家保は兄の後を追うように康和五年(一一〇三)に備後国、翌年出雲守に遷任して一期四年務めたが、杵築社造営に関して申請した重任も認められず、その後は国守となることもなく公卿に進めないまま大治三年(一一二八)に死亡した(大日方克己氏「平安後期の出雲国司」)。兄基隆が四八才で死亡したのはその四年後であったが、家保の年齢は不詳である。

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