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2018年7月 7日 (土)

天治元年の国守1

 ①②の内容に戻ると、行事として饗宴を担当するのは①②とも権右中弁藤原顕頼(顕隆子)であった。御前物の行事は①②とも藤原敦兼(後述)、児御衣の行事は①②とも藤原顕盛(長実の子)、屯食の行事は①平忠盛②藤原経親(経忠子)、禄の行事は①②とも藤原顕能(顕頼同母弟)であった。①のみには威儀御前があり、担当行事は三河守源有賢であった。
 元永元年(一一一八)正月一八日の除目で、元文章生尹経が院分である阿波国守に補任され、元筑前守である有業が御祈祷物功で長門国守に補任されている。有業はともに藤原南家の子孫で学問を業とする行家と実範の娘の間に生まれた。実範の子季兼の子孫は尾張国熱田大宮司を世襲し、源頼朝の母となった女性は季兼の孫娘である。阿波守として尹経の次に確認できるのは天治二年(一一二五)二月に補任された源有賢である。その時点まで尹経が阿波守の地位にあったと思われる。長門守として有業に次いで確認できるのは大治元年(一一二六)二月ないし三月に補任された高階経敏であり、この時点まで有業が長門守であった可能性が高い。保安元年正月の除目で藤原時通が院分である因幡国守に補任され、長承元年一一月に備後守に遷任している。これに関して五味文彦氏は、時通の実父宗通が因幡国知行国主で、その死後は養父長実が知行国主を継承したとされた。分国主白河院-知行国主宗通(→長実)-国守時通という体制であったのかもしれない。摂津守については盛家の現任が保安四年(一一二〇)正月から天治元年八月まで確認できる。左衛門権佐盛長の子である盛家は主殿頭を兼、翌年正月には藤原光房が補任されている。
 近江守には藤原宗兼が天治元年正月の除目で補任され、大治五年一〇月の時点での現任が確認できる。備後国守は保安元年正月の除目で藤原実信が補任されている。同時に因幡守に補任された時通が二期八年務めて大治二年(一一二七)一二月に備後守に遷任しており、実信も同様であった可能性が高い。実信は閑院流で権中納言に進んだ保実の子で待賢門院の従兄弟となるが、これ以降の受領などの補任歴は確認できず大治五年(一一三〇)に死亡している。実信と入れ替わるようにその子公信が大治二年末に武蔵守に補任されている。公信は保延元年二月に若狭守現任が確認でき、五月に重任しており、それ以前に武蔵国から遷任している(中右記、「国司一覧」には常陸国にも同様の記載があるが誤り)。保延三年正月の若狭守現任の後、康治元年一〇月と一一月には丹波守現任が確認できる。
武蔵守は藤原通基の後任で、次いで武蔵守として確認できるのは藤原信輔である。若狭守の前任も信輔であり、後任は康治二年正月に阿波守に遷任した藤原頼佐である。丹波守の前任は通基であり、後任は通基の子通重である。

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