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2018年7月 6日 (金)

出雲守藤原朝雅(親)

 「国司一覧」の出雲守に朝方の同母弟朝雅(朝親)を追加できるので、以下に述べる。
 院政期の出雲国を支配したのは院ならびに院近臣であるが、その中で最も長期に在任したのは知行国主藤原朝方である。途中一度だけ石見国に遷任したことがあったが、約三〇年間にわたって、自らの子などを国守として支配を行った。その父は藤原為房の子朝隆であるが、その母もまた為房の子顕隆の娘であった。
 朝方と出雲国との関係を示すのは『兵範記』仁安二年(一一六七)一〇月一九日条に五節舞姫人々を献上すべき殿上人として「出雲守朝時」がみえることである。この史料は井上寛司氏作成の史料目録に掲載されている。朝時は藤原敦綱の子から朝方の養子となった人物で、当時の出雲国知行国主が朝方であったことを示している。一方、『愚昧記』仁安元年八月一七日条には出雲前司朝親がみえている。こちらは井上氏の目録には未掲載である。
  朝方の同母弟で顕隆の孫である朝親(元は朝雅)が出雲守に在任したことがわかる。問題はその時期であるが、朝雅は保元三年(一一五八)八月一〇日に近江守に補任されている。その前任は仁平元年(一一五一)二月二日補任の兄朝方であるが、近江国知行国主である父朝隆のもとで兄弟が相次いで国守となっていた。『公卿補任』の朝方の項にも兄朝方が近江守を辞して弟に譲ったとある。ところが、朝隆は平治元年(一一五九)一〇月三日に六三才で死亡した。実際には死亡する前の閏五月に近江国知行国主を退任している。翌永暦元年正月、藤原範兼が近江守に補任されているが、この間に短期間国守を務めた人物があろう。
 朝雅は近江守を失った代わりに出雲守に補任された。平基親が保元三年四月二日に出雲守に補任されたばかりであったが、平治元年閏五月二八日に基親の父親範が二期八年(一一四八~一一五六)国守であった伯耆国に遷任させ、その跡の出雲守に朝雅を補任したと思われる。当時の伯耆守は二条天皇派の中心源光保の子光宗であったが、後白河上皇派の親範-基親父子に交替させたのであろう。
 次に問題となるのは、朝方が出雲国知行国主となり、子朝時が出雲守に補任された時期である。出雲守朝雅時の知行国主の可能性があるのは父の同母弟親隆と異母兄顕隆の嫡孫光頼であろう。朝雅の母は顕隆の娘であった。親隆は長寛元年八月に六五才で出家して二年後に死亡し、光頼も翌二年八月に四一才で出家・退隠して九年後に死亡している。親隆の子親雅は保元三年五月六日に長門守に補任され、長寛三年正月二三日に得替している。以上を勘案すると、長寛三年正月の除目で親隆-朝親から朝方-朝時に交替した可能性が高い。この時点で朝方は三一才であるが、嫡子朝定の誕生(長寛三年)前であり、そのために養子朝時を迎えて当座の国守としたのだろう。朝定が出雲守に補任されたのは五才となった嘉応元(一一六九)年正月一一日であった。朝時の補任から丁度四年が経過していた。
 朝方の養子朝時のその後の行方であるが、受領に補任された形跡はみあたらない。学者敦綱が父であったが、『山塊記』治承三年一月一三日条には前年に強盗を働き捕らえられていた前出雲守朝時とその与党四名がその身を検非違使に渡されて獄に入れられたとの記事がみえる。この史料は井上氏の目録に掲載されている。また、朝親のその後は養父親隆の役割を継承して摂関家家司としての活動が中心となった。以上、編纂所データベースの検索により新たに確認した史料一点とそれにより判明する出雲守一名について確認・分析した。

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