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2018年7月24日 (火)

観応の擾乱と出雲国人1

  康永四年(一三四五)二月二七日、反幕府方の佐々木次郎左衛門尉貞家が屋根山城に楯籠もったとの情報を得た三刀屋郷粟谷村一分地頭諏方部貞扶は、翌二八日には惣領とともに屋根山城に向かい、三月三日には城内に攻め込み凶徒らを追い落としたとして、同所で合戦に参加した佐々木五郎左衛門尉を証人(見知人)として守護代吉田厳覚に軍忠状を提出し、「承候了」との証判を得ている。問題はこの屋根山城がどこにあったかであるが、『出雲・隠岐の城館』のリストにもみえず、ネットでも特に情報がヒットしない。とりあえず、その候補地を検討してみたい。
楯籠もった佐々木貞家は暦応四年(一三四一)に討伐された前出雲国守護塩冶高貞の子であり、攻撃の中心となった佐々木五郎左衞門尉は高貞亡き後、塩冶氏の惣領となった弟の時綱の嫡子である。高貞の仮名は『古本伯耆巻』では三郎と記されている。父貞清は二郎であったが、祖父で塩冶氏を初めて名乗った頼泰は三郎であった。貞清は自らの祖父二郎泰清との関係で二郎と名乗ったと思われる。高貞の子について『群書類従本』のみ三郎貞道を記しているが、これが嫡子であったと思われるが、高貞滅亡後にどうなったかは不明である。次郎左衛門尉貞家は高貞の庶子であったことになる。一方、時綱は五郎であり、それは嫡子に継承されたはずだか、『群書類従本』には時綱の子として二人の五郎(重綱と大熊宗泰)を記している。重綱が時綱の嫡子で、屋根山城を攻撃した人物だと思われる。その兄弟には高貞と同時に自害したとの注記がある人物が二人いる。
 御評定著座次第の貞和五年正月六日条には御荷用の中に佐々木五朗左衞門尉がみえる。貞和元年八月二九日の天竜寺供養の際の「執綱」に「佐々木参河前司」がみえる。前者が重綱で後者が時綱である。
貞和六年(一三五〇)八月一二日、出雲国内で足利直冬に呼応する国人が挙兵し、幕府方に国人との間で合戦が行われた。前者に参加した楯縫郡小境伊藤平五郎入道元智の二通の軍忠状が残されているが、内容には共通する点が多い。一通では佐々木六郎左衞門尉と共に旗挙げしたとして翌一三日に白潟橋で幕府方国人と戦ったとする。見知人は土屋弁房と多久中太郎である。次に翌七年正月二六日に出雲国に直冬方の大将が派遣されたのを受けて、馳参して軍忠をしたとする。もう一通では八月に同族の伊藤弾正左衛門尉とともに旗挙げしたことと翌年正月に塩冶郷に馳せ参じ、宍道八幡宮まで御供をしたことを記すのが相違点であるが、その他は同内容である。後者は同族との関係を意識したものであろう。幕府方にも同族の小堺次郎左衛門尉が参加しており、一族内で選択が異なったのである。前者に記される佐々木六郎左衛門尉について、幕府方に参加して軍忠状を提出した大野庄内祢宇村一分地頭北垣光政は「佐々木近江六郎左衛門尉」と記しているが、これまた佐々木近江守高貞の遺児であり、反幕府方の中心であった。それは直冬方の大将が出雲国に派遣された際に塩冶郷に参陣せよとの催促状が出され、それを受けて小境元智が馳参したことからもわかる。塩冶時綱の嫡子五郎左衞門尉重綱が幕府方の中心であり、塩冶郷奪回を目指したものであろう。

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