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2018年7月24日 (火)

観応の擾乱と出雲国人4

 しかしこの状況も長続きせず、八月七日には尊氏が南朝に降伏して、嫡子義詮と結んで直義派への攻撃を始め、危機を感じた直義は自派の守護とともに北陸へ脱出した。山名時氏もこれに従ったので、出雲国守護の地位は間もなく失ったと思われるが、その一方で時氏が八月二一日には出雲国人三刀屋信恵に対して軍勢催促を行っている。これに呼応する形で九月二二日には三刀屋信恵が、桑原神五一族・若槻源蔵人一族・片山平次郎入道一族・仁田彦四郎一族とともに三刀屋郷内石丸城に籠城して旗揚げしたことを、若槻孫四郎を見知人として報告し、時氏の証判を得ている。これによるならば、若狭国へ下った時氏は間もなく直義とは別行動を取り、伯耆国に帰ったのではないか。時氏の帰国をうけて、三刀屋信恵が軍忠状を提出したと思われる。信恵本人は出雲国にとどまり嫡子弥三郎助直を畿内に派遣していた。観応元年八月一二日に反幕府方が行った旗揚げも同様のことであったと思われる。なお、時氏は観応二年一〇月一五日には出雲大社に対して佐々布次郎左衛門尉跡の薗村を寄進している。
 時氏の嫡子師義は父とは異なり京都に留まり尊氏方として活動していた。翌観応三年八月には京極道誉が出雲国守護に復帰していることが確認できる。これが変わるのは師義が若狭国の所領問題で不満を持ち、京都から伯耆国に下向した八月末のことであった。時氏は南朝と結び京極氏の領国であった出雲国に攻め込み、道誉の守護代吉田厳覚を追放した。反幕府方の国人も山名時氏の傘下に入り、出雲国内では貞治三年に山名氏が幕府に復帰するまで、反幕府方が優位に立った。

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