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2018年7月24日 (火)

観応の擾乱と出雲国人5

 以上のように、出雲国内でも幕府方が優位に立っていたが、直義と師直の対立により幕府が動揺したことで、反幕府方であった塩冶高貞の遺児とそれを支援する土屋氏・来島氏・伊藤氏が第一段階の旗揚げをした。幕府方によって抑え込まれたかにみえたが、今度は九州へ逃れた足利直冬に呼応する人々がこれに加わって第二段階の挙兵が行われた。この時点では伯耆国名和氏との連携も計画された。そして山名時氏・師義父子が出雲国に攻め込んだのが第三段階であり、これ以降は反幕府派が出雲国内では優位に立った。
 最初の康永四年二月の屋根山城に籠城して挙兵した人々は、観応元年七月の旗揚げに参加した人々と重なるのではないか。土屋四郎左衛門尉は文永八年に意宇郡忌部郷地頭であった土屋四郎入道の子孫ではないか。来島氏は苗字の地である飯石郡来島郷ととともに、神門郡伊秩庄の地頭でもあった。伊秩庄は神門川中流域を領域とする庄園で下流域の塩冶郷と上流域の来島郷をつなぐ地域であった。康永四年に反幕府方が籠城して挙兵した屋根山城も来島郷内の城郭ではなかったか。
 元弘三年五月日山内通継軍忠状によると、通継は一族と伴い五月二日に石清水八幡宮のある山崎に馳参し、七日には京都に入って東寺西や六波羅西河原で合戦を行ったとしているが、同所で合戦をした見知人として武田十郎(備後国ヵ)、石見国大家弥太郎、出雲国来島和田三郎の名をあげている。鰐淵寺僧頼源は七日に八幡から京都に発向して竹田河原や六波羅西門で軍功をあげたことを述べ、見知人として中郡彦次郎入道(大原郡久野郷)・朝山彦四郎(神門郡朝山郷ヵ)の名をあげている。来島氏も早い時期から後醍醐天皇のもとに馳参して軍功を積んでいる。また、来島を名乗るところから東国御家人ではなく、国御家人と思われる。

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