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2018年7月24日 (火)

観応の擾乱と出雲国人3

 八月一二日は能義郡と飯石郡で合戦が行われるとともに、佐々木六郎左衛門尉、小境弾正左衛門尉が旗挙げをしているが、一方、幕府でも解任された高師直がクーデターを起こして直義を引退に追い込んだ。当然、出雲国の合戦はそれ以前の師直解任を背景として起こったものである。翌一三日には幕府方が飯石郡で野萱・下子城を攻めるとともに、白潟橋の合戦が行われた。三刀屋貞助は一三日に飯石郡内の合戦が一段落した後に能義郡富田城へ向い、さらに一四日には意宇郡平浜八幡合戦に参加している。
 白潟橋合戦に幕府方として参加した北垣光政は、一二日に蜂起した人物について土屋四郎左衛門尉・同修理亮、佐々木近江六郎左衛門尉以下と記している。土屋四郎左衛門尉は七月には一族に伊藤弾正左衛門尉を加えて阿用蓮花寺城に籠城していた。佐々木近江六郎左衛門尉は前述のとおり高貞の遺児である。一三日に野萱・下子城に籠城した佐々木近江次郎左衛門尉貞宗(家)の兄弟である。これに対して幕府方国人は佐陀次郎左衛門尉・玖潭彦四郎・小堺二郎左衛門尉等であり、当座は数的不利もあって佐陀城に籠城した。翌一三日に西部神門郡から佐々木三河守(重綱)・朝山右衛門尉(義景)が救援に駆けつけたので、佐陀城を出て白潟橋の合戦を支援し、反幕府方を追い払ったとする。
 しかしこれで合戦が終了したのではなく、一四日には意宇郡八幡津と島根郡森山でも合戦があった。幕府方としては何とか反幕府方の動きを抑えたのかもしれないが、今度は足利直冬が石見・出雲国に大将を派遣しててこ入れを行った。八月一二日のクーデターで養父直義が引退に追い込まれると、幕府は中国探題として備後国鞆浦にいた直冬の追討命令を出し、九月一三日に攻撃を受けた直冬は九州に逃れた。結果として直冬は九州で勢力を拡大し、中国地方の国人に対して反幕府の立場から軍勢を催促するようになる。
 そしてこれに呼応するかのように一〇月二六日に直義は京都を脱出して大和に赴き、南朝に降って尊氏と対抗するようになり、両派の戦闘がしばらく続いたが、翌観応二年二月末には直義派が勝利し、三月初めに講和が結ばれた。これを受けて尊氏派の京極道誉に替わって直義派の山名時氏が出雲国守護となった。この時期、中国地方の国人の中には大宰府の直冬のもとに使者を派遣し、所領の安堵を受けるものが続出した。反幕府方の小境元智も二月に軍忠状を提出し、証判を得ている。

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