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2018年7月 7日 (土)

出雲守隆頼と経隆

  基隆の子としては藤原知(友)房の娘を母とする隆頼が長治二年(一一〇五)年に三河守に補任され、二期八年(大日方氏による)務めているが、幼少であり、基隆が任国である播磨国・伊予国と平行してその支配に当たっていたと思われる。これに対して藤原長忠の娘を母とする忠隆は四年後の嘉承四年(一一〇九)に丹波守となっているが、これまた基隆が知行国主であった。隆頼は永久二年末に、藤原顕頼(顕隆の子)と相博して出雲守に遷任して七年間務めた。異母弟忠隆は元永元年(一一一八)末に藤原家保(顕季の子で、基隆の弟家保とは別人)と相博して但馬守に遷任した。まさに、白河院の寵臣間のキャッチボールであった。
 経隆は忠隆の同母弟で、最初に受領となったのは周防守であるが、「国司一覧」では大治三年末に藤原憲方と相博して出雲守に補任されたことしか確認されていない。ところが、天治元年(一一二四)三月一四日作成の鳥羽院の第二皇子通仁親王誕生の準備として①中宮御産間雑事定と二三日に作成された②御七夜定には、饗宴に関する費用が以下のように諸国と担当者に課され、そこには経隆とともに隆頼の名も記されている(忠教卿記、編纂所謄写本で確認)。
 上達部(公卿)分二〇前は①近江と藤原宗兼、②阿波と藤原尹経、殿上人分二〇前は①備後と藤原実信、②因幡と藤原時通、侍所分三〇前は①紀伊と藤原季輔、②長門と藤原有業、庁分三〇前は①和泉と藤原範隆、②摂津と源盛家、女房衝重六〇前は①近江・越中と藤原隆頼・源顕定、②上総・周防と藤原経隆・藤原敦俊の組み合わせ(三〇前ずつ)である。女房衝重以外は単独で、いずれも当該国の国守に課されている。
 女房衝重分①の二ヶ国については、「国司一覧」で当該時期の国守は不明とされるが、越中については『中右記』長承二年七月一六日条に源少将憲俊とその弟越中前司顕定がみえており、源雅俊の子顕定が天治元年の越中守で、隆頼が若狭守であることになる。②については経隆が大治三年末まで周防国守であり、敦俊が元永二年七月に上総守に補任され、天治二年二月に没していることから、天治元年三月の時点で経隆が周防守で、敦俊が上総守であったことが確認できる。敦俊は敦家の子で堀河乳母兼子を母とする異母弟敦兼が御前物行事としてみえている。経隆は周防守を二期八年務めて藤原憲方と相博して出雲守に遷任したと考えられる。隆頼については永久二年一二月に出雲守に補任された後の史料を欠いている。系図には出雲守とともに若狭守も記され、保安二年一二月に後任の憲方が補任されるまで出雲守の地位にあったと推定されている。
 大日方氏は久安三年八月、五年一二月(一一月が正しく、これとは別に久安四年三月と久安五年七月の春日社への奉幣使にも隆頼がみえている)に朝廷が派遣した春日社への奉幣使として「前若狭守隆頼」がみえるとして(『本朝世紀』)、前後の若狭守の在任期間を勘案して、隆頼が出雲守から若狭守に遷任したとしたが、その可能性は大であろう。その任期は藤原家成が淡路守に補任された天治二年正月までであろう。

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