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2018年7月24日 (火)

観応の擾乱と出雲国人2

 白潟合戦については幕府方の三刀屋十郎貞助の軍忠状も残されている。それによると、八月一二日の旗挙げには前段があり、前月の七月に大原郡阿用庄蓮花寺城に土屋四郎左衛門尉同一族と伊藤弾正左衛門尉が楯籠もり、飯石郡来島庄内由木城には来島蔵人三郎以下が籠城、同庄内野萱と下子城には来島蔵人次郎と佐々木近江次郎左衛門城貞宗が楯籠もったのである。閏六月には足利直義が兄尊氏に執事高師直の解任を迫って実現し、師直派の排除を開始したことで、幕府の分裂の端緒となった。この情勢をみての七月の反幕府派の籠城であったと思われる。
 これに対して、守護代吉田厳覚が三刀屋貞助等味方の国人を動員して降参させ、没落させているが、この構図は規模が異なるが、康永四年と同じである。ところが、反幕府方の動きはこれに止まらず、八月に入ると伯耆国凶徒が出雲国に攻めて来るとの風聞が出されたため、貞助は安来津の警固を命じられた。伯耆国の南朝方の中心である名和氏との間で連携が図られていたのであろう。すると、一二日には国内の佐々木信濃五郎左衛門尉と同六郎左衛門尉等が高野山を越えてきたため、幕府方がこれを攻撃し、貞助は富田関所まで大将の御供をしたとする。大将の名は不明だが、見知人として厳覚の一族である吉田兵衞次郎をあげ、証判を加えたのは厳覚であった。佐々木信濃五郎左衛門尉・六郎左衛門尉については、高貞の弟四郎貞泰が系図では信濃守とされ、その子である可能性が高い。貞泰は高貞の出雲国への逃亡を密告した人物とされているが、高貞自身も建武元年八月の雑訴決断所結番交名には「佐々木信濃判官」と呼ばれており、この後に隠岐守を経て近江守に補任されている。信濃守は泰清以来、塩冶氏と関わりの深い官職であった。康永三年五月一七日に足利直義が新熊野社に参詣した際の帯太刀に佐々木吉田源三左衛門尉とともに佐々木信濃五郎がみえる。また、時綱が参加していた貞和元年(一三四五)八月二九日の天竜寺供養にも佐々木信濃五郎の名がみえている。
 この一族も山名氏領国に移り、応永四年(一三九七)一二月一四日には幕府の命令を遵行し、醍醐寺領伯耆国国延保への諸公事・守護役の免除を守護山名氏之が佐々木信濃入道に命じている。応永一〇年六月二〇日にも氏之が大山寺西明院領久古御牧地頭職を雑掌に沙汰付けよとの幕府御教書を受けて信濃入道に命じており、信濃入道は伯耆国守護代であろう。

 

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