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2018年7月 1日 (日)

卜部兼仲関係史料

 兼仲に関する史料をもう一点確認する。『医心方』紙背文書中の年未詳八月二二日散位藤原書状中の「民部大夫」である。従来の研究により、加賀国に関する文書は大治二年(一一二七)のもので、民部大夫が卜部兼仲に、散位藤原は藤原親賢に比定されている(五味文彦氏「紙背文書の方法」等)。
 大治二年正月に後鳥羽院の近臣藤原家成が院分国である加賀国の国守に補任されており、親賢は山下郷からの申文を目代某に進達するとともに、その問題に関して、民部大夫兼仲に沙汰について尋ねた上で対処したほうがよいと述べているが、一方では前司藤原季成の時代の問題で、現在の国司が沙汰するのはどうかともコメントしている。
 季成は公実の子で、待賢門院の異母弟である。二〇才であった保安二年(一一二一)閏四月一一日から家成が補任された大治二年正月まで加賀守であった。父公実は嘉承二年(一一〇七)に死亡しており、異母兄である西園寺通季が知行国主であった(寺門高僧記)。
 院分国である加賀国の国守に補任された家成のもとで、任国の支配を行ったのが目代であり、京都の目代と連絡を取りつつ実務を担ったのが、親賢や兼仲であった。両者は家成の関係者というよりも、複数あった院分国をまたいで実務を行う存在であった。系図では親賢について白河院の主典代・判官代であったとしているが、山城国梅宮社務の一族であった兼仲も同様であろう。親賢は翌大治三年に佐渡守(一期四年ヵ)に補任され、兼仲は待賢門院に対して成功を行って同四年に石見守(二期八年)に補任されている。その院分国の経営を担う中で培った経済力が成功を可能とした。兼仲は鳥羽院と待賢門院の両方と密接な関係にあったが、特に後者との関係では、待賢門院から梅宮社領宇多庄の庄務を兼仲に行わせるようにとの遺言がなされるほどであった。以上、兼仲について補足を行った。

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