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2018年7月 7日 (土)

天治元年の国守2

 頼佐は顕隆の子顕能(顕頼の同母弟)の子であるが、顕能は三三才で死亡し公卿には進まなかった。平正盛の後任として保安元年(一一二〇)一二月に一四才で備前守となり、大治二年(一一二七)一二月に正盛の子忠盛と相博して越前守に遷任した。長承元年閏四月には美作守に遷任した。その後の受領歴は確認できないが、保延二年二月には平忠盛の美作守現任が確認できる。顕隆・顕頼父子と忠盛はいずれも待賢門院庁の別当であった。頼佐に次いで久安三年正月に阿波守に補任された藤原保綱は、公信の孫(実清の子)である。実清は保元の乱で崇徳方となったように、待賢門院-崇徳ラインと関係が深い人物であった。
 通基・通重父子は、通基と待賢門院官女兼上西門院乳母である女性の間に生まれたのが通重と弟基家であったように、待賢門院と深い関わりを持った。待賢門院庁別当となっている有力な人物の中には鳥羽院庁の近臣が多いが、通基は待賢門院庁のみであある。通重は通基の嫡子で、上西門院の分国である能登守から久安四年正月には丹波守に遷任した。同年一一月の父の死による服喪をへて復帰したが、翌五年八月に死亡した。子である一条能保は三才でしかなかった。信輔は藤原経忠と待賢門院の同母姉妹の女性との間に生まれ、
嫡子信隆は通基の娘を室として、嫡子坊門信清が誕生している。ある時期の武蔵守、若狭守、丹波守は待賢門院関係者が続けて補任されていた。
 因幡守時通については前述の通りである。藤原季輔は保実の兄弟仲実の子で、保安二年から天治元年まで一期四年間務めた(『明月記』建保三年正月五日条)。前任者は藤原清隆で五年間務め、後任者の藤原顕長は院分国に五年間在任した。父は顕隆、母は源顕房の娘である。和泉守藤原範隆は天治元年正月に近江守に遷任した藤原宗兼の後任で、一期四年務めて大治三年正月に甲斐守に遷任した。清隆の同母弟であり、甲斐守在任中の長承二年八月二七日に死亡している。
 永久二年(一一一四)末に出雲守となった隆頼は、天永元年六月五日(永昌記)と永久四年一〇月(朝野群載)には勧学院(会所)学頭としてみえる。次いで天治元年五月二八日に第二皇子が誕生し、計画された行事が実施されていくが、御七夜にあたる六月五日には勧学院衆が一七人が参賀に訪れているが、そこにも学頭隆頼の名がみえている(為隆卿記、編纂所謄写本)。保安二年二月に高階宗章が若狭守から遠江守に遷任したと記されているが(『二中歴』)、出雲守に憲方が補任された一二月に隆頼が出雲守から若狭守に遷任し、一期四年務めて、天治二年正月に藤原家成(院分国)と交替したと思われる。その後、受領補任を含めて隆頼に関する史料は確認できない。系図でも隆頼については「従五位下、若狭守、三河守」とのみ記されており、終見史料からそう遠くない時点で死亡したのではないか。

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