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2018年7月30日 (月)

一四世紀中頃の日野氏1

 伯耆国日野氏について前に述べたが、若干の補足を行う。後醍醐天皇が名和氏の支持のもとに船上山に籠城したことは知られているが、そこには名和氏以外に日野氏と内河氏が加わっていた。まさに反幕府方としての旗揚げをしたわけである。名和長年の母は内河八郎弼家の娘であり、長年の子である義高と基長の母は弼家の子内河次郎右頼の娘であった。そして右頼の兄弟である内河真信が長年の執事を務めた。
 内河氏は後白河院の北面であったが、その中から三代将軍源実朝の御家人となるものが出、信濃国吉田・内河・時田を支配していた。弼家の父弼忠は安達泰盛が滅ぼされた霜月騒動に参加して討ち死にし、弼家自身も遁世して、伯耆国に下向したとする。これ以前から伯耆国に所領を有していたと思われ、その中で弼家の娘と長田行高(名和長年の父)との婚姻が成立した。
 名和氏と内河氏が鎌倉期以降に伯耆国に入部した御家人であるのに対して、日野氏は平安末期以降、伯耆国内で大きな勢力を持っていた武士(国御家人)である。『吾妻鏡』にも関係記事が見られるように、国御家人でありながら伯耆国内の所領の地頭職に補任されており、出雲国の土屋氏や大野氏との間に婚姻関係を持ち、所領も支配していた。
 『古本伯耆巻』には日野三郎義行がその子又三郎義泰と甥六郎太郎義氏とともに後醍醐の旗揚げに参加していた。幕府滅亡により、恩賞として伯耆国内のみならず、国外にも所領を与えられた可能性が高い。問題は南北朝の動乱時の日野氏の選択であるが、既に述べたように、出雲大社神主職をめぐる対立について、出雲国守護塩冶高貞は建武三年(一三三六)七月に佐々木氏一族の富田弥六入道頼秀(羽田井氏)と日野掃部左衞門入道に対して、大社領を国造清孝に沙汰付けて、子細を申すものがあれば注進せよと命じている。

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