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2018年7月10日 (火)

出雲守橘俊孝

 俊孝は出雲大社顛倒を偽り佐渡国に配流となった人物であるが、それまでも様々なトラブルを起こしていた人物である。本来は守備範囲外の時期の人物であるが、なぜ出雲守に補任されたのかと思って少し調べてみた。
 『松江市史』では大日方氏が『尊卑分脈』『系図纂要』『橘氏系図』に俊孝は見当たらず、系譜上の位置づけは不明だとしている。確かにそれらの系図をみても載っていないのだが、ネットで情報を集めると、いくつかの情報がヒットする。
 その子に法相宗の高僧で、興福寺や法隆寺を拠点として活動した永超がいた。長和三年(一〇一四)の生まれで、父俊孝が配流された時点で一九才であり、すでに僧侶となっていたと思われる。八三才と長命であり寛治八年(一〇九三)に撰述した『東域伝燈目録』は興福寺など諸寺院の所蔵した仏典目録として有名である(朝日日本歴史人物事典)。父親とはかなり性格の違う人物であったようである。
 父は大和守(系図の記載で、一次史料では確認できない)俊済(後に俊古と改名)である。祖父茂枝までは橘氏系図にも掲載されていることが多い。茂枝には佐臣・正臣・高臣の三人の息子がいたが、佐臣系統のみその後を記すのが一般的で、そのため俊孝が系図で確認しにくかった。俊済には俊堪・俊遠・俊孝・俊範の四人の息子がいたが、俊遠は著名な人物で、関係史料も多く残されている。肥前・讃岐・周防守を歴任しつつ、俊孝と同様、小野宮右大臣実資に仕えていたが、関白頼通との間も良好であった。俊孝と同様闘諍のトラブルがあったが、弟ほどひどくはなく、妻は三条天皇の子隆姫の乳母を務めていた。そして頼通の子俊綱が俊遠の養子となった。俊綱は尾張・丹波・播磨・讃岐・近江・但馬守を歴任し、その子家光は頼通の孫花山院家忠の養子となっている。そして家光の娘は藤原信輔との間に坊門信隆と水無瀬親信を産んでいる。信隆の娘が後鳥羽の母七条院である。水無瀬氏が後鳥羽に祗候した背景が理解できた。
 話がそれたが、俊孝の長兄俊堪は掃部頭、末弟俊範は縫殿正と注記があり、中央での活動が中心であった。『宮廷公家系図集覧』の橘氏の部分を確認したら、俊孝とその兄弟が記されており、俊孝の系譜上の位置付の確認はそれほど難しい問題ではなかったことに気づかされた。俊孝の又従兄弟道貞の室が和泉式部である。出雲守在任が確認できる橘孝親は橘奈良麻呂の孫真材の子孫であるが、俊孝は真材の兄弟長谷麻呂の子孫であり、かなり以前に分かれた同族である。俊孝は小野宮家への奉仕により出雲守となったが、兄俊遠のように富を蓄積することはできなかった。

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