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2018年7月

2018年7月30日 (月)

一四世紀中頃の日野氏2

 今回、土屋氏関連史料として国立公文書館(内閣文庫)所蔵の「名和系図、同一族系図」があることを教示いただいた。そこには土屋宗行とその子宗重・宗清のみを記した系図も収録されているが、同じく名和氏と関係する一族として日野氏の系図(部分)も収録されている。それによれば、名和氏の旗揚に参加した日野義行について、「日野太郎」「日野掃部左衛門尉」という注記が記されている。その子が又三郎義泰と五郎義重であり、義行については系図の「太郎」ではなく『伯耆巻』の「三郎」が正しいと思われるが、官職を持たなかった日野義行が建武政権下で「掃部左衛門尉」に補任され、それは室町幕府によっても認められたことがわかる。出雲土屋氏には名和氏との関係から南朝方となったものが多かったことを述べたが、日野義行は出雲国守護塩冶高貞とともに建武政権からの離脱を選択したのである。それがゆえに戦国期まで伯耆国内で勢力を維持することができた。
 一族系図には紀姓で伯耆国三能(米子市美吉)を支配する一族の系図が含まれている。平安末期の伯耆国では小鴨氏や日野氏と並んで大きな勢力を持っていた紀氏の一族であろう。名和氏との婚姻関係は確認できないが、内河右頼の娘が三能紀六郎為成の妻となっており、名和氏と三能氏をつなぐ役割を果たしている。
 興国四年(一三四三)六月一日には名和高重が鰐淵寺根本薬師堂造営料を寄進し、杵築木工助景春が鰐淵寺南院常行堂造営の願文を捧げていた。杵築氏は名和長年の一族であるとされたが、「杵築」を苗字としていたのは国造家と同じ「出雲朝臣(実際は宿祢)」であったためであることが系図から確認できた。その一族には田中氏もいた。
 景春は系図によると兄弟景国の子国正を養子にしているが、一方では正平七年正月一〇日には杵築大社領松木別所南北を鰐淵寺の讃岐律師御房頼源に譲っている(千家文書)。景国の女子には名和氏一族布施弥太郎通興の妻となった女性もいた。
 名和長年の嫡子義高も延元三年五月二二日に和泉国堺浦・石津の戦いで北畠顕家とともに討死し、その跡は弟基長と真弓(大中臣)顕任の娘の間に生まれた顕興が継承している。「真弓」という所領名は伯耆国内に確認できないので、本来は伯耆国外の武士であろう。但馬国の南端(生野銀山付近)にある真弓であろう。とりあえず、今回はここまでとする。

一四世紀中頃の日野氏1

 伯耆国日野氏について前に述べたが、若干の補足を行う。後醍醐天皇が名和氏の支持のもとに船上山に籠城したことは知られているが、そこには名和氏以外に日野氏と内河氏が加わっていた。まさに反幕府方としての旗揚げをしたわけである。名和長年の母は内河八郎弼家の娘であり、長年の子である義高と基長の母は弼家の子内河次郎右頼の娘であった。そして右頼の兄弟である内河真信が長年の執事を務めた。
 内河氏は後白河院の北面であったが、その中から三代将軍源実朝の御家人となるものが出、信濃国吉田・内河・時田を支配していた。弼家の父弼忠は安達泰盛が滅ぼされた霜月騒動に参加して討ち死にし、弼家自身も遁世して、伯耆国に下向したとする。これ以前から伯耆国に所領を有していたと思われ、その中で弼家の娘と長田行高(名和長年の父)との婚姻が成立した。
 名和氏と内河氏が鎌倉期以降に伯耆国に入部した御家人であるのに対して、日野氏は平安末期以降、伯耆国内で大きな勢力を持っていた武士(国御家人)である。『吾妻鏡』にも関係記事が見られるように、国御家人でありながら伯耆国内の所領の地頭職に補任されており、出雲国の土屋氏や大野氏との間に婚姻関係を持ち、所領も支配していた。
 『古本伯耆巻』には日野三郎義行がその子又三郎義泰と甥六郎太郎義氏とともに後醍醐の旗揚げに参加していた。幕府滅亡により、恩賞として伯耆国内のみならず、国外にも所領を与えられた可能性が高い。問題は南北朝の動乱時の日野氏の選択であるが、既に述べたように、出雲大社神主職をめぐる対立について、出雲国守護塩冶高貞は建武三年(一三三六)七月に佐々木氏一族の富田弥六入道頼秀(羽田井氏)と日野掃部左衞門入道に対して、大社領を国造清孝に沙汰付けて、子細を申すものがあれば注進せよと命じている。

2018年7月24日 (火)

観応の擾乱と出雲国人5

 以上のように、出雲国内でも幕府方が優位に立っていたが、直義と師直の対立により幕府が動揺したことで、反幕府方であった塩冶高貞の遺児とそれを支援する土屋氏・来島氏・伊藤氏が第一段階の旗揚げをした。幕府方によって抑え込まれたかにみえたが、今度は九州へ逃れた足利直冬に呼応する人々がこれに加わって第二段階の挙兵が行われた。この時点では伯耆国名和氏との連携も計画された。そして山名時氏・師義父子が出雲国に攻め込んだのが第三段階であり、これ以降は反幕府派が出雲国内では優位に立った。
 最初の康永四年二月の屋根山城に籠城して挙兵した人々は、観応元年七月の旗揚げに参加した人々と重なるのではないか。土屋四郎左衛門尉は文永八年に意宇郡忌部郷地頭であった土屋四郎入道の子孫ではないか。来島氏は苗字の地である飯石郡来島郷ととともに、神門郡伊秩庄の地頭でもあった。伊秩庄は神門川中流域を領域とする庄園で下流域の塩冶郷と上流域の来島郷をつなぐ地域であった。康永四年に反幕府方が籠城して挙兵した屋根山城も来島郷内の城郭ではなかったか。
 元弘三年五月日山内通継軍忠状によると、通継は一族と伴い五月二日に石清水八幡宮のある山崎に馳参し、七日には京都に入って東寺西や六波羅西河原で合戦を行ったとしているが、同所で合戦をした見知人として武田十郎(備後国ヵ)、石見国大家弥太郎、出雲国来島和田三郎の名をあげている。鰐淵寺僧頼源は七日に八幡から京都に発向して竹田河原や六波羅西門で軍功をあげたことを述べ、見知人として中郡彦次郎入道(大原郡久野郷)・朝山彦四郎(神門郡朝山郷ヵ)の名をあげている。来島氏も早い時期から後醍醐天皇のもとに馳参して軍功を積んでいる。また、来島を名乗るところから東国御家人ではなく、国御家人と思われる。

観応の擾乱と出雲国人4

 しかしこの状況も長続きせず、八月七日には尊氏が南朝に降伏して、嫡子義詮と結んで直義派への攻撃を始め、危機を感じた直義は自派の守護とともに北陸へ脱出した。山名時氏もこれに従ったので、出雲国守護の地位は間もなく失ったと思われるが、その一方で時氏が八月二一日には出雲国人三刀屋信恵に対して軍勢催促を行っている。これに呼応する形で九月二二日には三刀屋信恵が、桑原神五一族・若槻源蔵人一族・片山平次郎入道一族・仁田彦四郎一族とともに三刀屋郷内石丸城に籠城して旗揚げしたことを、若槻孫四郎を見知人として報告し、時氏の証判を得ている。これによるならば、若狭国へ下った時氏は間もなく直義とは別行動を取り、伯耆国に帰ったのではないか。時氏の帰国をうけて、三刀屋信恵が軍忠状を提出したと思われる。信恵本人は出雲国にとどまり嫡子弥三郎助直を畿内に派遣していた。観応元年八月一二日に反幕府方が行った旗揚げも同様のことであったと思われる。なお、時氏は観応二年一〇月一五日には出雲大社に対して佐々布次郎左衛門尉跡の薗村を寄進している。
 時氏の嫡子師義は父とは異なり京都に留まり尊氏方として活動していた。翌観応三年八月には京極道誉が出雲国守護に復帰していることが確認できる。これが変わるのは師義が若狭国の所領問題で不満を持ち、京都から伯耆国に下向した八月末のことであった。時氏は南朝と結び京極氏の領国であった出雲国に攻め込み、道誉の守護代吉田厳覚を追放した。反幕府方の国人も山名時氏の傘下に入り、出雲国内では貞治三年に山名氏が幕府に復帰するまで、反幕府方が優位に立った。

観応の擾乱と出雲国人3

 八月一二日は能義郡と飯石郡で合戦が行われるとともに、佐々木六郎左衛門尉、小境弾正左衛門尉が旗挙げをしているが、一方、幕府でも解任された高師直がクーデターを起こして直義を引退に追い込んだ。当然、出雲国の合戦はそれ以前の師直解任を背景として起こったものである。翌一三日には幕府方が飯石郡で野萱・下子城を攻めるとともに、白潟橋の合戦が行われた。三刀屋貞助は一三日に飯石郡内の合戦が一段落した後に能義郡富田城へ向い、さらに一四日には意宇郡平浜八幡合戦に参加している。
 白潟橋合戦に幕府方として参加した北垣光政は、一二日に蜂起した人物について土屋四郎左衛門尉・同修理亮、佐々木近江六郎左衛門尉以下と記している。土屋四郎左衛門尉は七月には一族に伊藤弾正左衛門尉を加えて阿用蓮花寺城に籠城していた。佐々木近江六郎左衛門尉は前述のとおり高貞の遺児である。一三日に野萱・下子城に籠城した佐々木近江次郎左衛門尉貞宗(家)の兄弟である。これに対して幕府方国人は佐陀次郎左衛門尉・玖潭彦四郎・小堺二郎左衛門尉等であり、当座は数的不利もあって佐陀城に籠城した。翌一三日に西部神門郡から佐々木三河守(重綱)・朝山右衛門尉(義景)が救援に駆けつけたので、佐陀城を出て白潟橋の合戦を支援し、反幕府方を追い払ったとする。
 しかしこれで合戦が終了したのではなく、一四日には意宇郡八幡津と島根郡森山でも合戦があった。幕府方としては何とか反幕府方の動きを抑えたのかもしれないが、今度は足利直冬が石見・出雲国に大将を派遣しててこ入れを行った。八月一二日のクーデターで養父直義が引退に追い込まれると、幕府は中国探題として備後国鞆浦にいた直冬の追討命令を出し、九月一三日に攻撃を受けた直冬は九州に逃れた。結果として直冬は九州で勢力を拡大し、中国地方の国人に対して反幕府の立場から軍勢を催促するようになる。
 そしてこれに呼応するかのように一〇月二六日に直義は京都を脱出して大和に赴き、南朝に降って尊氏と対抗するようになり、両派の戦闘がしばらく続いたが、翌観応二年二月末には直義派が勝利し、三月初めに講和が結ばれた。これを受けて尊氏派の京極道誉に替わって直義派の山名時氏が出雲国守護となった。この時期、中国地方の国人の中には大宰府の直冬のもとに使者を派遣し、所領の安堵を受けるものが続出した。反幕府方の小境元智も二月に軍忠状を提出し、証判を得ている。

観応の擾乱と出雲国人2

 白潟合戦については幕府方の三刀屋十郎貞助の軍忠状も残されている。それによると、八月一二日の旗挙げには前段があり、前月の七月に大原郡阿用庄蓮花寺城に土屋四郎左衛門尉同一族と伊藤弾正左衛門尉が楯籠もり、飯石郡来島庄内由木城には来島蔵人三郎以下が籠城、同庄内野萱と下子城には来島蔵人次郎と佐々木近江次郎左衛門城貞宗が楯籠もったのである。閏六月には足利直義が兄尊氏に執事高師直の解任を迫って実現し、師直派の排除を開始したことで、幕府の分裂の端緒となった。この情勢をみての七月の反幕府派の籠城であったと思われる。
 これに対して、守護代吉田厳覚が三刀屋貞助等味方の国人を動員して降参させ、没落させているが、この構図は規模が異なるが、康永四年と同じである。ところが、反幕府方の動きはこれに止まらず、八月に入ると伯耆国凶徒が出雲国に攻めて来るとの風聞が出されたため、貞助は安来津の警固を命じられた。伯耆国の南朝方の中心である名和氏との間で連携が図られていたのであろう。すると、一二日には国内の佐々木信濃五郎左衛門尉と同六郎左衛門尉等が高野山を越えてきたため、幕府方がこれを攻撃し、貞助は富田関所まで大将の御供をしたとする。大将の名は不明だが、見知人として厳覚の一族である吉田兵衞次郎をあげ、証判を加えたのは厳覚であった。佐々木信濃五郎左衛門尉・六郎左衛門尉については、高貞の弟四郎貞泰が系図では信濃守とされ、その子である可能性が高い。貞泰は高貞の出雲国への逃亡を密告した人物とされているが、高貞自身も建武元年八月の雑訴決断所結番交名には「佐々木信濃判官」と呼ばれており、この後に隠岐守を経て近江守に補任されている。信濃守は泰清以来、塩冶氏と関わりの深い官職であった。康永三年五月一七日に足利直義が新熊野社に参詣した際の帯太刀に佐々木吉田源三左衛門尉とともに佐々木信濃五郎がみえる。また、時綱が参加していた貞和元年(一三四五)八月二九日の天竜寺供養にも佐々木信濃五郎の名がみえている。
 この一族も山名氏領国に移り、応永四年(一三九七)一二月一四日には幕府の命令を遵行し、醍醐寺領伯耆国国延保への諸公事・守護役の免除を守護山名氏之が佐々木信濃入道に命じている。応永一〇年六月二〇日にも氏之が大山寺西明院領久古御牧地頭職を雑掌に沙汰付けよとの幕府御教書を受けて信濃入道に命じており、信濃入道は伯耆国守護代であろう。

 

観応の擾乱と出雲国人1

  康永四年(一三四五)二月二七日、反幕府方の佐々木次郎左衛門尉貞家が屋根山城に楯籠もったとの情報を得た三刀屋郷粟谷村一分地頭諏方部貞扶は、翌二八日には惣領とともに屋根山城に向かい、三月三日には城内に攻め込み凶徒らを追い落としたとして、同所で合戦に参加した佐々木五郎左衛門尉を証人(見知人)として守護代吉田厳覚に軍忠状を提出し、「承候了」との証判を得ている。問題はこの屋根山城がどこにあったかであるが、『出雲・隠岐の城館』のリストにもみえず、ネットでも特に情報がヒットしない。とりあえず、その候補地を検討してみたい。
楯籠もった佐々木貞家は暦応四年(一三四一)に討伐された前出雲国守護塩冶高貞の子であり、攻撃の中心となった佐々木五郎左衞門尉は高貞亡き後、塩冶氏の惣領となった弟の時綱の嫡子である。高貞の仮名は『古本伯耆巻』では三郎と記されている。父貞清は二郎であったが、祖父で塩冶氏を初めて名乗った頼泰は三郎であった。貞清は自らの祖父二郎泰清との関係で二郎と名乗ったと思われる。高貞の子について『群書類従本』のみ三郎貞道を記しているが、これが嫡子であったと思われるが、高貞滅亡後にどうなったかは不明である。次郎左衛門尉貞家は高貞の庶子であったことになる。一方、時綱は五郎であり、それは嫡子に継承されたはずだか、『群書類従本』には時綱の子として二人の五郎(重綱と大熊宗泰)を記している。重綱が時綱の嫡子で、屋根山城を攻撃した人物だと思われる。その兄弟には高貞と同時に自害したとの注記がある人物が二人いる。
 御評定著座次第の貞和五年正月六日条には御荷用の中に佐々木五朗左衞門尉がみえる。貞和元年八月二九日の天竜寺供養の際の「執綱」に「佐々木参河前司」がみえる。前者が重綱で後者が時綱である。
貞和六年(一三五〇)八月一二日、出雲国内で足利直冬に呼応する国人が挙兵し、幕府方に国人との間で合戦が行われた。前者に参加した楯縫郡小境伊藤平五郎入道元智の二通の軍忠状が残されているが、内容には共通する点が多い。一通では佐々木六郎左衞門尉と共に旗挙げしたとして翌一三日に白潟橋で幕府方国人と戦ったとする。見知人は土屋弁房と多久中太郎である。次に翌七年正月二六日に出雲国に直冬方の大将が派遣されたのを受けて、馳参して軍忠をしたとする。もう一通では八月に同族の伊藤弾正左衛門尉とともに旗挙げしたことと翌年正月に塩冶郷に馳せ参じ、宍道八幡宮まで御供をしたことを記すのが相違点であるが、その他は同内容である。後者は同族との関係を意識したものであろう。幕府方にも同族の小堺次郎左衛門尉が参加しており、一族内で選択が異なったのである。前者に記される佐々木六郎左衛門尉について、幕府方に参加して軍忠状を提出した大野庄内祢宇村一分地頭北垣光政は「佐々木近江六郎左衛門尉」と記しているが、これまた佐々木近江守高貞の遺児であり、反幕府方の中心であった。それは直冬方の大将が出雲国に派遣された際に塩冶郷に参陣せよとの催促状が出され、それを受けて小境元智が馳参したことからもわかる。塩冶時綱の嫡子五郎左衞門尉重綱が幕府方の中心であり、塩冶郷奪回を目指したものであろう。

2018年7月23日 (月)

南北朝動乱と出雲土屋氏3

 山名氏と土屋氏との関係であるが、初期の守護代(伯耆・出雲・丹波・丹後)としてみえるのは小林民部丞=源国範であった。これに対して観応の擾乱後の実力支配の時期に実質的守護である山名氏の権限の行使を担う存在として土屋氏一族の大葦氏が登場する。(A)正平一〇年三月一七日に左衛門尉為清と但治行綱が連署して、山上大輔公御房に対して丹後国志楽庄朝来村内景守名名主職を安堵しているが、その文書の袖には「大葦殿渡状」と記されている。(B)山名氏が正式な幕府守護に補任された貞治三年一〇月一五日には沙弥片切・僧比留田の連署により山上大輔公御房に安堵されているが、袖には「山名殿下知状」とあり、先年の土屋土佐守遵行に任せて安堵している。
 安堵状は守護山名氏から出され、次いで守護代土屋(大葦)氏の遵行状と奉行人二名の連署の打渡状が出されたと思われる。(A)(B)ともに守護と守護代の文書は失われ、奉行人の打渡状のみが残ったものである。これにより大葦氏が丹後国で山名氏の代官を務めていたことがわかる。貞治三年の山名氏復帰以前からその代官を務めており、その背景には建武政権下で大葦氏が丹後国内で所領を与えられていたことがあった。応安五年一一月一八日には丹後国芋野庄半分地頭職に対する土屋五郎右衛門尉による押領を停止せよとの引付頭人奉書が出されているが、同年一二月には山名時義が但馬国守護に補任され、大葦入道が守護代として下向している。
 大葦氏の苗字の地は出雲国大葦であるが、平安末期に北野天神領として、蓮華王院領加賀庄に先行して成立し、文永八年には北野末社とみえ、地頭は東国御家人と思われる香木三郎入道であった。これに対して、加賀庄地頭であった土屋氏の庶子が北野末社を獲得して、大葦氏を名乗るようになった。その時期が幕府滅亡時かその前かについては史料がなく不明であるが、大葦氏は建武政権のもとで丹後国内の所領を得ていたと思われる。

南北朝動乱と出雲土屋氏2

 野波浦は加賀庄内であり、地頭とは土屋氏である。ただし、地頭はここでは清高らを食い止めることはできないというので、途中の紆余曲折を経て、後醍醐天皇一向は最終的に名和長年のもとへ逃れ、船上山に籠城し、清高軍の撃退に成功した。これを受けて出雲・隠岐を中心に船上山の後醍醐のもとに参陣する武士が増加したが、その中に名和長年の一族とともに土屋孫三郎宗重、子息彦三郎、同彦五郎信貞、舎弟阿陀伽井長信らがいた。出雲国の土屋氏であろう。
 鎌倉幕府滅亡により、後醍醐の隠岐脱出に協力した人々に旧北条氏領などの闕所地とされた所領が与えられたが、出雲土屋氏が但馬(丹後もヵ)国に所領を得たのはこの時点であろう。次いで、建武政権が崩壊して動乱が開始されると、出雲土屋氏の多くは名和長年とともに後醍醐方となったと思われるが、幕府方が優勢な状況の中、他国に所領を得た一族の中には幕府方となるものもあったと思われる。
 そうした中、建武四年には伯耆国守護に山名時氏が起用され、塩冶高貞の滅亡後の暦応四年には一時期出雲国守護にも起用された。出雲国は康永二年には京極道誉に交替したが、時氏は丹後国守護(暦応四年~)と丹波国守護(貞和元年~)に補任され、観応の擾乱時には実力で出雲国から丹波国にかけての山陰道と美作国を支配し、貞治三年に幕府方に復帰した際にも、伯耆・因幡・美作・丹後・丹波の五ヶ国守護を確保し、応安五年には山名氏が以後本拠地とする但馬国の守護にも補任され、康暦の政変後には出雲・隠岐・備後を加えた。また貞治三年末に山名義理が石見国守護に補任されたが、二年後には大内弘世に交替している。

南北朝動乱と出雲土屋氏1

 ここのところ、院政期~鎌倉末期までの知行国主と国守並びに院分国について検討をしていたが、権力者が交替するとあっという間に知行国を認められる人々も交替する。そして両統迭立により、持明院統と大覚寺統のそれぞれが世襲する分国を確保するようになる。それまでは長期間にわたって院分国となる国はいくつかあったが、期限付きというのが原則であった。
 次いで、ブログの読者から土屋氏一族垣屋氏に関する新たな系図の存在を教示いただいたため、その検討を行っていた。これまで未知の土屋康宗(その兄弟については記載なし、父は実康、祖父は忠宗=後述)から出た垣屋氏の苗字の地「垣屋」は丹波国宮田庄内にあるとされるが、その菩提寺蓮華寺と一族の苗字の地である「大谷」は但馬国北部の竹野郷内にある。この大谷氏から垣屋氏が分出されている。垣屋氏の中には播磨国守護赤松氏の家臣となり、赤松氏当主と共通する「則」をその名前に使用しているものもいたが、今回の系図には記されていない。系図で同族とされる福富氏については、出雲国にも出雲郡福富保があり、その関係者である可能性も検討したが、但馬国北部の大庭庄内福富が苗字の地であるとようやく確認できた。隣接して系図にも一族の苗字の地としてみえる「和田」がある。ただし、弘安八年の但馬国大田文をみても土屋氏が地頭である所領はなく、これ以降に進出したものである。
 出雲国の土屋氏は南北朝動乱で反幕府方となったものが多く、それがゆえに後に山名氏領国へ移住したものがあったが、反幕府方となった背景として、伯耆国船上山から幕府打倒の命令を出した後醍醐天皇との関係が考えられる。『古本伯耆巻』によると、隠岐国分寺に幽閉されていた後醍醐が京都から奉仕してきた成田入道に、警固にあたっている武士で頼みになるものがいないか聞いたところ、土屋又四郎を連れてきて、土屋が名和長高(長年)を推薦し、他の二〇余人の武士も同意見であったことが記されている。警固にあたっていた長年の弟村上行氏を通じて長年を説得しようとしたが、その前に京都から警固の責任者である隠岐国守護佐々木清高に、監視を徹底せよとの命令が届いたため、後醍醐は準備が整う前に急いで隠岐からの脱出を行った。それを知った追跡をする清高の船が美保関に入ったとの情報を得たため、後醍醐一行は野波浦に入り、その地の地頭を頼った。

2018年7月11日 (水)

七月の近況から

 W坏の準決勝第1試合が終わったところである。TVのスイッチを入れてはいたが、視聴したのは最後の10分間程度であった。作業を優先したのである。サッカーは出来不出来、相性と微妙な面があるようだ。イタリア・オランダの予選敗退もだが、2年前の欧州選手権準々決勝でベルギーに勝利しベスト4となったウェールズも敗退。イタリア・オランダほど惜しくはなく、グループリーグ3位であった。日本戦で一時ベルギーの選手は二年前の悪夢が一瞬頭をよぎったと述べていた。
 ポーランド戦については、もう余力が無かったのであの戦法を採っただけである。意図した決断の結果ではない。ベルギー戦も同様であった。たまたま相手は予選敗退とその試合に勝っていたので日本にお付き合いしただけで、プロの試合としては最低のものであった。何が一部の選手の入れ替え(それもレギュラー組から控組に)であそこまでチーム力が変わったかが不思議である。
 サッカーをみて残念なのは、反則をもらう行為と遅延行為が目に余る点である。一発退場にすれば状況は一変するだろう。TVオフィシャルによる確認もするのだからそうすることで試合は緊張感が倍増するのではないか。実施当初は判定をめぐる混乱が予想されるが、時間がたてば審判と選手の共通理解が進もう。
 もう一は、プロリーグのチームが国代表より数段レベルが高いので、W坏といえどもあまり視聴欲がわかない。国代表の戦いも大会以外は親善試合でしかない。ラグビーはプロ化を避けてきたのでサッカーのような見るのがいやになるプレーは各段に少ない。国代表が行う試合のほとんどはテストマッチである。プロリーグはあるが、国代表最優先なのがサッカーとの大きな違いである。
 最近の天気は山上のように変わりやすく、その気象状況の急変もまだら模様である。今回は一九八三年に島根県西部を中心に被害のあった豪雨以来の死者一〇〇人越えであったという。一九八八年にも同地域で豪雨があったが、対策後であり、死者はなお多いが、二〇人台であった。一九七二年七月の豪雨は全国で一ヶ月近く断続的に続き、死者四七二人という惨状であった。特に一九八三年の豪雨は深夜に降水量が激増し、朝起きた際には床上浸水であった。
 更に強い国土にしないといけないという与党幹事長の実現不可能な妄想は有名だが、人口減少の中で居住地区の意図的見直しが必要であろう。過疎地からの移転もあるが、ハザードマップの危険地域(人口密集地帯にも多い)からの移転も必要である。その時だけ避難すればよいというものではなく、生活基盤が失われるのである。豪雨と地震・津波が重なることもあるわけで、自治体の避難計画(元々無理がある)も実現不可能となる。大型の台風8号に関するニュースは少ないが、沖縄県を抜けてまもなく中国に上陸するようである。現時点で死者などのニュースはないが、沖縄の人と動植物は長年の経験に基づき対処しているのだろうか。
 最近は知行国に関して情報を収集しているが、院政期から鎌倉末まではみる必要がある。それをみると貴族の消長が一目瞭然である。杵築社領家も藤原光隆まではその子を国守として知行国を確保していたが、その子の世代以降は知行国主は出ていない。その後松殿兼嗣が領家となったが、松殿家は木曽義仲への与同により摂関家から脱落し、兼嗣も三一才で参議となったが、知行国主にはなれなかった。

2018年7月10日 (火)

出雲守橘俊孝

 俊孝は出雲大社顛倒を偽り佐渡国に配流となった人物であるが、それまでも様々なトラブルを起こしていた人物である。本来は守備範囲外の時期の人物であるが、なぜ出雲守に補任されたのかと思って少し調べてみた。
 『松江市史』では大日方氏が『尊卑分脈』『系図纂要』『橘氏系図』に俊孝は見当たらず、系譜上の位置づけは不明だとしている。確かにそれらの系図をみても載っていないのだが、ネットで情報を集めると、いくつかの情報がヒットする。
 その子に法相宗の高僧で、興福寺や法隆寺を拠点として活動した永超がいた。長和三年(一〇一四)の生まれで、父俊孝が配流された時点で一九才であり、すでに僧侶となっていたと思われる。八三才と長命であり寛治八年(一〇九三)に撰述した『東域伝燈目録』は興福寺など諸寺院の所蔵した仏典目録として有名である(朝日日本歴史人物事典)。父親とはかなり性格の違う人物であったようである。
 父は大和守(系図の記載で、一次史料では確認できない)俊済(後に俊古と改名)である。祖父茂枝までは橘氏系図にも掲載されていることが多い。茂枝には佐臣・正臣・高臣の三人の息子がいたが、佐臣系統のみその後を記すのが一般的で、そのため俊孝が系図で確認しにくかった。俊済には俊堪・俊遠・俊孝・俊範の四人の息子がいたが、俊遠は著名な人物で、関係史料も多く残されている。肥前・讃岐・周防守を歴任しつつ、俊孝と同様、小野宮右大臣実資に仕えていたが、関白頼通との間も良好であった。俊孝と同様闘諍のトラブルがあったが、弟ほどひどくはなく、妻は三条天皇の子隆姫の乳母を務めていた。そして頼通の子俊綱が俊遠の養子となった。俊綱は尾張・丹波・播磨・讃岐・近江・但馬守を歴任し、その子家光は頼通の孫花山院家忠の養子となっている。そして家光の娘は藤原信輔との間に坊門信隆と水無瀬親信を産んでいる。信隆の娘が後鳥羽の母七条院である。水無瀬氏が後鳥羽に祗候した背景が理解できた。
 話がそれたが、俊孝の長兄俊堪は掃部頭、末弟俊範は縫殿正と注記があり、中央での活動が中心であった。『宮廷公家系図集覧』の橘氏の部分を確認したら、俊孝とその兄弟が記されており、俊孝の系譜上の位置付の確認はそれほど難しい問題ではなかったことに気づかされた。俊孝の又従兄弟道貞の室が和泉式部である。出雲守在任が確認できる橘孝親は橘奈良麻呂の孫真材の子孫であるが、俊孝は真材の兄弟長谷麻呂の子孫であり、かなり以前に分かれた同族である。俊孝は小野宮家への奉仕により出雲守となったが、兄俊遠のように富を蓄積することはできなかった。

2018年7月 7日 (土)

基隆流と出雲国

 藤原基隆は院近臣の有力者が国守となる、伊予・播磨など大国の国守となるとともに、その子が国守を務める国の知行国主となった。
一二世紀初めは基隆と弟家保、子の隆頼が国守であった。次いで家保がその地位を失った代わりに嫡子忠隆が天仁二年(一一〇九)に丹波守となった。
 保安元年(一一二〇)には子経隆が国守となり四ヶ国となったが、四年目に隆頼の国守が失われ、三ヶ国に戻った。そして大治五年(一一三〇)に基隆が公卿になると、播磨守は家成に交替して二ヶ国となった。久安四年(一一四八)に忠隆が公卿となると、弟経隆に加えて嫡子信頼と基成、家頼が国守となり一時的に四ヵ国を回復した。しかし長続きはせず、仁平三年(一一五三)末に経隆が出雲守を、基成が陸奥守を退任すると二ヵ国となった。以前のように安定して優先的に一期四年や二期八年を務める状況は失われた。
 このような地位の低下に歯止めをかけたのが、信頼に対する後白河の寵愛であった。信頼は弟信説と信家を国守として武蔵国と長門国知行国主となったが、平治の乱(一一五九)で敗死すると、基隆流の人物が国守である国は消滅してしまった。基隆流の衰退は平治の乱ではなく、それ以前から進行していた。その原因として、基隆とその子達が安定的に優先的に国守と知行国の座を確保できたのは、待賢門院-崇徳流との関係があった。嫡子忠隆に顕隆娘とその子顕頼娘を室として迎え、後者との間に生まれた信頼も顕頼娘を室とした。顕隆流と清隆流との間にも婚姻関係が結ばれていたように、待賢門院-崇徳院を支えたのは待賢門院の兄弟=閑院流と顕隆流・基隆流・清隆流であった。顕頼流と清隆流は一方で美福門院-後白河流との関係を確保していたため、保元の乱後も安定して国守・知行国主の座を確保していったが、。
  一二世紀には三度の杵築大社造営・遷宮が行われており、天仁の遷宮は顕隆の嫡子顕頼が、久安の遷宮は清隆の嫡子光隆が、研究の遷宮は顕隆の孫朝方により行われ、基隆流の影が薄い気がするが、基隆流は(A)永久二年から保安二年までの七年間は基隆-子隆頼が、(B)大治三年から五年までの二年間は基隆-子経隆が、(C)久安二年一二月から久寿元年正月までの七年間は忠隆-弟経隆と一六年間にわたって出雲国を支配してきた。杵築大社領が神主内蔵忠光により領家藤原資憲、本家崇徳上皇に寄進されて立券されたのは(C)の時期であった。これに対して清隆流は(B)の跡を受ける形で保延四年一二月から久安二年一二月までの二期八年間、清隆-子光隆が支配した。保元の乱で待賢門院-崇徳院が勢力を失った後も、顕隆の孫朝方-子朝時・朝定・朝経と朝方弟朝雅が後白河院の近臣として約五〇年間支配した。

天治元年の国守2

 頼佐は顕隆の子顕能(顕頼の同母弟)の子であるが、顕能は三三才で死亡し公卿には進まなかった。平正盛の後任として保安元年(一一二〇)一二月に一四才で備前守となり、大治二年(一一二七)一二月に正盛の子忠盛と相博して越前守に遷任した。長承元年閏四月には美作守に遷任した。その後の受領歴は確認できないが、保延二年二月には平忠盛の美作守現任が確認できる。顕隆・顕頼父子と忠盛はいずれも待賢門院庁の別当であった。頼佐に次いで久安三年正月に阿波守に補任された藤原保綱は、公信の孫(実清の子)である。実清は保元の乱で崇徳方となったように、待賢門院-崇徳ラインと関係が深い人物であった。
 通基・通重父子は、通基と待賢門院官女兼上西門院乳母である女性の間に生まれたのが通重と弟基家であったように、待賢門院と深い関わりを持った。待賢門院庁別当となっている有力な人物の中には鳥羽院庁の近臣が多いが、通基は待賢門院庁のみであある。通重は通基の嫡子で、上西門院の分国である能登守から久安四年正月には丹波守に遷任した。同年一一月の父の死による服喪をへて復帰したが、翌五年八月に死亡した。子である一条能保は三才でしかなかった。信輔は藤原経忠と待賢門院の同母姉妹の女性との間に生まれ、
嫡子信隆は通基の娘を室として、嫡子坊門信清が誕生している。ある時期の武蔵守、若狭守、丹波守は待賢門院関係者が続けて補任されていた。
 因幡守時通については前述の通りである。藤原季輔は保実の兄弟仲実の子で、保安二年から天治元年まで一期四年間務めた(『明月記』建保三年正月五日条)。前任者は藤原清隆で五年間務め、後任者の藤原顕長は院分国に五年間在任した。父は顕隆、母は源顕房の娘である。和泉守藤原範隆は天治元年正月に近江守に遷任した藤原宗兼の後任で、一期四年務めて大治三年正月に甲斐守に遷任した。清隆の同母弟であり、甲斐守在任中の長承二年八月二七日に死亡している。
 永久二年(一一一四)末に出雲守となった隆頼は、天永元年六月五日(永昌記)と永久四年一〇月(朝野群載)には勧学院(会所)学頭としてみえる。次いで天治元年五月二八日に第二皇子が誕生し、計画された行事が実施されていくが、御七夜にあたる六月五日には勧学院衆が一七人が参賀に訪れているが、そこにも学頭隆頼の名がみえている(為隆卿記、編纂所謄写本)。保安二年二月に高階宗章が若狭守から遠江守に遷任したと記されているが(『二中歴』)、出雲守に憲方が補任された一二月に隆頼が出雲守から若狭守に遷任し、一期四年務めて、天治二年正月に藤原家成(院分国)と交替したと思われる。その後、受領補任を含めて隆頼に関する史料は確認できない。系図でも隆頼については「従五位下、若狭守、三河守」とのみ記されており、終見史料からそう遠くない時点で死亡したのではないか。

天治元年の国守1

 ①②の内容に戻ると、行事として饗宴を担当するのは①②とも権右中弁藤原顕頼(顕隆子)であった。御前物の行事は①②とも藤原敦兼(後述)、児御衣の行事は①②とも藤原顕盛(長実の子)、屯食の行事は①平忠盛②藤原経親(経忠子)、禄の行事は①②とも藤原顕能(顕頼同母弟)であった。①のみには威儀御前があり、担当行事は三河守源有賢であった。
 元永元年(一一一八)正月一八日の除目で、元文章生尹経が院分である阿波国守に補任され、元筑前守である有業が御祈祷物功で長門国守に補任されている。有業はともに藤原南家の子孫で学問を業とする行家と実範の娘の間に生まれた。実範の子季兼の子孫は尾張国熱田大宮司を世襲し、源頼朝の母となった女性は季兼の孫娘である。阿波守として尹経の次に確認できるのは天治二年(一一二五)二月に補任された源有賢である。その時点まで尹経が阿波守の地位にあったと思われる。長門守として有業に次いで確認できるのは大治元年(一一二六)二月ないし三月に補任された高階経敏であり、この時点まで有業が長門守であった可能性が高い。保安元年正月の除目で藤原時通が院分である因幡国守に補任され、長承元年一一月に備後守に遷任している。これに関して五味文彦氏は、時通の実父宗通が因幡国知行国主で、その死後は養父長実が知行国主を継承したとされた。分国主白河院-知行国主宗通(→長実)-国守時通という体制であったのかもしれない。摂津守については盛家の現任が保安四年(一一二〇)正月から天治元年八月まで確認できる。左衛門権佐盛長の子である盛家は主殿頭を兼、翌年正月には藤原光房が補任されている。
 近江守には藤原宗兼が天治元年正月の除目で補任され、大治五年一〇月の時点での現任が確認できる。備後国守は保安元年正月の除目で藤原実信が補任されている。同時に因幡守に補任された時通が二期八年務めて大治二年(一一二七)一二月に備後守に遷任しており、実信も同様であった可能性が高い。実信は閑院流で権中納言に進んだ保実の子で待賢門院の従兄弟となるが、これ以降の受領などの補任歴は確認できず大治五年(一一三〇)に死亡している。実信と入れ替わるようにその子公信が大治二年末に武蔵守に補任されている。公信は保延元年二月に若狭守現任が確認でき、五月に重任しており、それ以前に武蔵国から遷任している(中右記、「国司一覧」には常陸国にも同様の記載があるが誤り)。保延三年正月の若狭守現任の後、康治元年一〇月と一一月には丹波守現任が確認できる。
武蔵守は藤原通基の後任で、次いで武蔵守として確認できるのは藤原信輔である。若狭守の前任も信輔であり、後任は康治二年正月に阿波守に遷任した藤原頼佐である。丹波守の前任は通基であり、後任は通基の子通重である。

出雲守隆頼と経隆

  基隆の子としては藤原知(友)房の娘を母とする隆頼が長治二年(一一〇五)年に三河守に補任され、二期八年(大日方氏による)務めているが、幼少であり、基隆が任国である播磨国・伊予国と平行してその支配に当たっていたと思われる。これに対して藤原長忠の娘を母とする忠隆は四年後の嘉承四年(一一〇九)に丹波守となっているが、これまた基隆が知行国主であった。隆頼は永久二年末に、藤原顕頼(顕隆の子)と相博して出雲守に遷任して七年間務めた。異母弟忠隆は元永元年(一一一八)末に藤原家保(顕季の子で、基隆の弟家保とは別人)と相博して但馬守に遷任した。まさに、白河院の寵臣間のキャッチボールであった。
 経隆は忠隆の同母弟で、最初に受領となったのは周防守であるが、「国司一覧」では大治三年末に藤原憲方と相博して出雲守に補任されたことしか確認されていない。ところが、天治元年(一一二四)三月一四日作成の鳥羽院の第二皇子通仁親王誕生の準備として①中宮御産間雑事定と二三日に作成された②御七夜定には、饗宴に関する費用が以下のように諸国と担当者に課され、そこには経隆とともに隆頼の名も記されている(忠教卿記、編纂所謄写本で確認)。
 上達部(公卿)分二〇前は①近江と藤原宗兼、②阿波と藤原尹経、殿上人分二〇前は①備後と藤原実信、②因幡と藤原時通、侍所分三〇前は①紀伊と藤原季輔、②長門と藤原有業、庁分三〇前は①和泉と藤原範隆、②摂津と源盛家、女房衝重六〇前は①近江・越中と藤原隆頼・源顕定、②上総・周防と藤原経隆・藤原敦俊の組み合わせ(三〇前ずつ)である。女房衝重以外は単独で、いずれも当該国の国守に課されている。
 女房衝重分①の二ヶ国については、「国司一覧」で当該時期の国守は不明とされるが、越中については『中右記』長承二年七月一六日条に源少将憲俊とその弟越中前司顕定がみえており、源雅俊の子顕定が天治元年の越中守で、隆頼が若狭守であることになる。②については経隆が大治三年末まで周防国守であり、敦俊が元永二年七月に上総守に補任され、天治二年二月に没していることから、天治元年三月の時点で経隆が周防守で、敦俊が上総守であったことが確認できる。敦俊は敦家の子で堀河乳母兼子を母とする異母弟敦兼が御前物行事としてみえている。経隆は周防守を二期八年務めて藤原憲方と相博して出雲守に遷任したと考えられる。隆頼については永久二年一二月に出雲守に補任された後の史料を欠いている。系図には出雲守とともに若狭守も記され、保安二年一二月に後任の憲方が補任されるまで出雲守の地位にあったと推定されている。
 大日方氏は久安三年八月、五年一二月(一一月が正しく、これとは別に久安四年三月と久安五年七月の春日社への奉幣使にも隆頼がみえている)に朝廷が派遣した春日社への奉幣使として「前若狭守隆頼」がみえるとして(『本朝世紀』)、前後の若狭守の在任期間を勘案して、隆頼が出雲守から若狭守に遷任したとしたが、その可能性は大であろう。その任期は藤原家成が淡路守に補任された天治二年正月までであろう。

2018年7月 6日 (金)

出雲守顕頼と隆頼

 顕隆の嫡子顕頼も天仁元年(一一〇八)正月から、途中重任して七年間に亘り出雲守に在任した。一五才であり、実際の支配を行った知行国主は祖父為房ないしは父顕隆であろうと推定されている。顕頼の後任は院近臣藤原基隆の子隆頼で、永久二年(一一一四)一二月から七年間在任した。顕頼は隆頼と相博して三河守に遷任している。隆頼は藤原知房の娘が母で生年は不明であるが、年少で補任されたと思われる三河守と同様、父基隆が知行国主であったと思われる。顕頼の前任者で一期四年出雲守を務めた家保は基隆の同母弟である。基隆は嫡子忠隆の室に、顕隆の娘とその嫡子顕頼の娘を迎え、後者を母とするのが後白河院の寵臣として平治の乱を引き起こした信頼である。前者を母とする隆教がいたが、出世するまでに死亡した可能性が高い。基隆-忠隆は大国の国守を歴任して晩年に非参議従三位として公卿となったが、孫信頼は初めて参議に進んだ。
 隆頼は保安二年(一一二一)一二月に藤原憲方と相博して周防守に遷任した。後任藤原憲方もまた七年間在任したが、為房の孫(為隆子)であり、父為隆が知行国主であったと思われる。そして大治三年一二月に国守となったのは基隆の庶子で、嫡子忠隆の同母弟である経隆であった。これも幼少であり基隆が知行国主として実権を握った。ただし経隆は二年後の大治五年一〇月に讃岐守に遷任した。
 藤原経隆は白河・鳥羽両院の近臣基隆の子である。基隆の曾祖父経輔は藤原道長と摂関の座を争った伊周の同母弟隆家の子経輔で、権大納言にまで進んだが、祖父師家が公卿となる前に三二才で死亡したため、父家範も国司を歴任したが殿上人に止まり、母方の祖父家房も同様であった。それが基隆の母家子が堀河天皇の乳母であったことで登用され、二〇才であった寛治八年(一〇九四)に美作守となって以降、公卿(従三位修理大夫)に進んだ大治五年(一一三〇)まで、播磨・伊予・播磨・讃岐・播磨と五回の遷任を行った。大国の受領としての経済力を背景として成功を重ね、弟家保と異なり、堀河の死後も白河・鳥羽両院に重用された。同母弟家保は兄の後を追うように康和五年(一一〇三)に備後国、翌年出雲守に遷任して一期四年務めたが、杵築社造営に関して申請した重任も認められず、その後は国守となることもなく公卿に進めないまま大治三年(一一二八)に死亡した(大日方克己氏「平安後期の出雲国司」)。兄基隆が四八才で死亡したのはその四年後であったが、家保の年齢は不詳である。

出雲守藤原朝雅(親)

 「国司一覧」の出雲守に朝方の同母弟朝雅(朝親)を追加できるので、以下に述べる。
 院政期の出雲国を支配したのは院ならびに院近臣であるが、その中で最も長期に在任したのは知行国主藤原朝方である。途中一度だけ石見国に遷任したことがあったが、約三〇年間にわたって、自らの子などを国守として支配を行った。その父は藤原為房の子朝隆であるが、その母もまた為房の子顕隆の娘であった。
 朝方と出雲国との関係を示すのは『兵範記』仁安二年(一一六七)一〇月一九日条に五節舞姫人々を献上すべき殿上人として「出雲守朝時」がみえることである。この史料は井上寛司氏作成の史料目録に掲載されている。朝時は藤原敦綱の子から朝方の養子となった人物で、当時の出雲国知行国主が朝方であったことを示している。一方、『愚昧記』仁安元年八月一七日条には出雲前司朝親がみえている。こちらは井上氏の目録には未掲載である。
  朝方の同母弟で顕隆の孫である朝親(元は朝雅)が出雲守に在任したことがわかる。問題はその時期であるが、朝雅は保元三年(一一五八)八月一〇日に近江守に補任されている。その前任は仁平元年(一一五一)二月二日補任の兄朝方であるが、近江国知行国主である父朝隆のもとで兄弟が相次いで国守となっていた。『公卿補任』の朝方の項にも兄朝方が近江守を辞して弟に譲ったとある。ところが、朝隆は平治元年(一一五九)一〇月三日に六三才で死亡した。実際には死亡する前の閏五月に近江国知行国主を退任している。翌永暦元年正月、藤原範兼が近江守に補任されているが、この間に短期間国守を務めた人物があろう。
 朝雅は近江守を失った代わりに出雲守に補任された。平基親が保元三年四月二日に出雲守に補任されたばかりであったが、平治元年閏五月二八日に基親の父親範が二期八年(一一四八~一一五六)国守であった伯耆国に遷任させ、その跡の出雲守に朝雅を補任したと思われる。当時の伯耆守は二条天皇派の中心源光保の子光宗であったが、後白河上皇派の親範-基親父子に交替させたのであろう。
 次に問題となるのは、朝方が出雲国知行国主となり、子朝時が出雲守に補任された時期である。出雲守朝雅時の知行国主の可能性があるのは父の同母弟親隆と異母兄顕隆の嫡孫光頼であろう。朝雅の母は顕隆の娘であった。親隆は長寛元年八月に六五才で出家して二年後に死亡し、光頼も翌二年八月に四一才で出家・退隠して九年後に死亡している。親隆の子親雅は保元三年五月六日に長門守に補任され、長寛三年正月二三日に得替している。以上を勘案すると、長寛三年正月の除目で親隆-朝親から朝方-朝時に交替した可能性が高い。この時点で朝方は三一才であるが、嫡子朝定の誕生(長寛三年)前であり、そのために養子朝時を迎えて当座の国守としたのだろう。朝定が出雲守に補任されたのは五才となった嘉応元(一一六九)年正月一一日であった。朝時の補任から丁度四年が経過していた。
 朝方の養子朝時のその後の行方であるが、受領に補任された形跡はみあたらない。学者敦綱が父であったが、『山塊記』治承三年一月一三日条には前年に強盗を働き捕らえられていた前出雲守朝時とその与党四名がその身を検非違使に渡されて獄に入れられたとの記事がみえる。この史料は井上氏の目録に掲載されている。また、朝親のその後は養父親隆の役割を継承して摂関家家司としての活動が中心となった。以上、編纂所データベースの検索により新たに確認した史料一点とそれにより判明する出雲守一名について確認・分析した。

2018年7月 1日 (日)

卜部兼仲関係史料

 兼仲に関する史料をもう一点確認する。『医心方』紙背文書中の年未詳八月二二日散位藤原書状中の「民部大夫」である。従来の研究により、加賀国に関する文書は大治二年(一一二七)のもので、民部大夫が卜部兼仲に、散位藤原は藤原親賢に比定されている(五味文彦氏「紙背文書の方法」等)。
 大治二年正月に後鳥羽院の近臣藤原家成が院分国である加賀国の国守に補任されており、親賢は山下郷からの申文を目代某に進達するとともに、その問題に関して、民部大夫兼仲に沙汰について尋ねた上で対処したほうがよいと述べているが、一方では前司藤原季成の時代の問題で、現在の国司が沙汰するのはどうかともコメントしている。
 季成は公実の子で、待賢門院の異母弟である。二〇才であった保安二年(一一二一)閏四月一一日から家成が補任された大治二年正月まで加賀守であった。父公実は嘉承二年(一一〇七)に死亡しており、異母兄である西園寺通季が知行国主であった(寺門高僧記)。
 院分国である加賀国の国守に補任された家成のもとで、任国の支配を行ったのが目代であり、京都の目代と連絡を取りつつ実務を担ったのが、親賢や兼仲であった。両者は家成の関係者というよりも、複数あった院分国をまたいで実務を行う存在であった。系図では親賢について白河院の主典代・判官代であったとしているが、山城国梅宮社務の一族であった兼仲も同様であろう。親賢は翌大治三年に佐渡守(一期四年ヵ)に補任され、兼仲は待賢門院に対して成功を行って同四年に石見守(二期八年)に補任されている。その院分国の経営を担う中で培った経済力が成功を可能とした。兼仲は鳥羽院と待賢門院の両方と密接な関係にあったが、特に後者との関係では、待賢門院から梅宮社領宇多庄の庄務を兼仲に行わせるようにとの遺言がなされるほどであった。以上、兼仲について補足を行った。

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