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2018年7月23日 (月)

南北朝動乱と出雲土屋氏3

 山名氏と土屋氏との関係であるが、初期の守護代(伯耆・出雲・丹波・丹後)としてみえるのは小林民部丞=源国範であった。これに対して観応の擾乱後の実力支配の時期に実質的守護である山名氏の権限の行使を担う存在として土屋氏一族の大葦氏が登場する。(A)正平一〇年三月一七日に左衛門尉為清と但治行綱が連署して、山上大輔公御房に対して丹後国志楽庄朝来村内景守名名主職を安堵しているが、その文書の袖には「大葦殿渡状」と記されている。(B)山名氏が正式な幕府守護に補任された貞治三年一〇月一五日には沙弥片切・僧比留田の連署により山上大輔公御房に安堵されているが、袖には「山名殿下知状」とあり、先年の土屋土佐守遵行に任せて安堵している。
 安堵状は守護山名氏から出され、次いで守護代土屋(大葦)氏の遵行状と奉行人二名の連署の打渡状が出されたと思われる。(A)(B)ともに守護と守護代の文書は失われ、奉行人の打渡状のみが残ったものである。これにより大葦氏が丹後国で山名氏の代官を務めていたことがわかる。貞治三年の山名氏復帰以前からその代官を務めており、その背景には建武政権下で大葦氏が丹後国内で所領を与えられていたことがあった。応安五年一一月一八日には丹後国芋野庄半分地頭職に対する土屋五郎右衛門尉による押領を停止せよとの引付頭人奉書が出されているが、同年一二月には山名時義が但馬国守護に補任され、大葦入道が守護代として下向している。
 大葦氏の苗字の地は出雲国大葦であるが、平安末期に北野天神領として、蓮華王院領加賀庄に先行して成立し、文永八年には北野末社とみえ、地頭は東国御家人と思われる香木三郎入道であった。これに対して、加賀庄地頭であった土屋氏の庶子が北野末社を獲得して、大葦氏を名乗るようになった。その時期が幕府滅亡時かその前かについては史料がなく不明であるが、大葦氏は建武政権のもとで丹後国内の所領を得ていたと思われる。

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