koewokiku(HPへ)

« 南北朝動乱と出雲土屋氏1 | トップページ | 南北朝動乱と出雲土屋氏3 »

2018年7月23日 (月)

南北朝動乱と出雲土屋氏2

 野波浦は加賀庄内であり、地頭とは土屋氏である。ただし、地頭はここでは清高らを食い止めることはできないというので、途中の紆余曲折を経て、後醍醐天皇一向は最終的に名和長年のもとへ逃れ、船上山に籠城し、清高軍の撃退に成功した。これを受けて出雲・隠岐を中心に船上山の後醍醐のもとに参陣する武士が増加したが、その中に名和長年の一族とともに土屋孫三郎宗重、子息彦三郎、同彦五郎信貞、舎弟阿陀伽井長信らがいた。出雲国の土屋氏であろう。
 鎌倉幕府滅亡により、後醍醐の隠岐脱出に協力した人々に旧北条氏領などの闕所地とされた所領が与えられたが、出雲土屋氏が但馬(丹後もヵ)国に所領を得たのはこの時点であろう。次いで、建武政権が崩壊して動乱が開始されると、出雲土屋氏の多くは名和長年とともに後醍醐方となったと思われるが、幕府方が優勢な状況の中、他国に所領を得た一族の中には幕府方となるものもあったと思われる。
 そうした中、建武四年には伯耆国守護に山名時氏が起用され、塩冶高貞の滅亡後の暦応四年には一時期出雲国守護にも起用された。出雲国は康永二年には京極道誉に交替したが、時氏は丹後国守護(暦応四年~)と丹波国守護(貞和元年~)に補任され、観応の擾乱時には実力で出雲国から丹波国にかけての山陰道と美作国を支配し、貞治三年に幕府方に復帰した際にも、伯耆・因幡・美作・丹後・丹波の五ヶ国守護を確保し、応安五年には山名氏が以後本拠地とする但馬国の守護にも補任され、康暦の政変後には出雲・隠岐・備後を加えた。また貞治三年末に山名義理が石見国守護に補任されたが、二年後には大内弘世に交替している。

« 南北朝動乱と出雲土屋氏1 | トップページ | 南北朝動乱と出雲土屋氏3 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 南北朝動乱と出雲土屋氏2:

« 南北朝動乱と出雲土屋氏1 | トップページ | 南北朝動乱と出雲土屋氏3 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ