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2018年6月30日 (土)

揖屋社の領家1

 揖屋庄は天養二年(一一四五、七月二二日にハレー彗星出現により久安に改元、寄進月日不明)に藤原資憲が崇徳天皇の御願寺成勝寺に寄進したことにより成立した。成勝寺は保延五年(一一三九)創建であるが、最も早い時期に立券・成立した三つの庄園の一つである。同年二月六日には但馬国浅間寺が上座法橋増仁により寄進され、八月一八日には藤原顕頼により丹波国福貴御園が寄進されている。
  この年は八月二二日に母待賢門院が死亡している。近年の研究では、待賢門院領(庁分・法金剛領・円勝寺領等)は、娘上西門院が継承したのではなく、長子である崇徳上皇が管理したとされている。それに加えて独自の崇徳院領として成勝寺領の形成が開始された。その背景としては、保延五年(一一三九)五月一八日に異母弟体仁親王の誕生し、すぐに立太子され、永治元年一二月には崇徳が退位し、近衛天皇として即位したことがあろう。 崇徳にも保延六年九月二日には重仁親王が誕生していたが、鳥羽院政の後継者が誰になるかは不透明であった。
 寄進時の国司について述べたが、丹波国については康治二年五月の藤原為忠と天養元年一二月の藤原惟方の記事は「国司一覧」の備考にあるように事実ではなく、この時期の国守」は康治元年一〇月現任の藤原公信が引き続きその任にあった可能性が高い。公信は保延元年から三年にかけては待賢門院庁下文の署判者としてみえ、その子実清は保元の乱では崇徳方となっている。
 但馬国については康治元年一二月から久安二年七月までの鳥羽院庁下文ないしは牒の署判者として「但馬守」がみえることが「国司一覧」に記されているが、康治元年一二月は写しか残っておらず、影写本で確認すると一本には「右馬守」とありもう一本には「右馬頭」とあり『大日本古文書』は前者に基づき「但馬守」の誤りヵとしたが、この前後の下文の署判者をみると後者が正しく、藤原長輔である。

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