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2018年6月 2日 (土)

上西門院の分国

 これについても五味氏が応保元年から承安三年までの加賀国、寿永二年と文治二年以降の備後国、さらには寿永二年から文治元年にかけての能登国を上西門院分国としている。加賀守は基重の子持明院基宗で、備後守は基宗の子基能とその弟家行、能登守は基能である。
 能登国は藤原通重に続いてその子持明院基家が久安四年(一一四八)から久寿二年(一一五五)にかけてと、保元元年(一一五六)から応保元年(一一六一)にかけて国守に補任されている。次いで応保二年(一一六二)から永万元年(一一六五)にかけては平教盛が、仁安三年(一一六八)から安元元年(一一七五)にかけては知行国主基家のもとで平通盛が国守を務めている。教盛は清盛の異母弟で、待賢門院女房であった藤原家隆女子を母としている。さらには、待賢門院の子崇徳上皇の側近であった藤原資憲女子を妻とし、その間に生まれたのが通盛、教経と後鳥羽の外祖父となる教子である。資憲自身は保元の乱後出家したが、その子俊光・基光はいずれも皇太后大進として上西門院に仕えていた。この点を踏まえれば、教盛が上西門院分国での国守であった可能性が強いのではないか。知行国主基家と国守通盛の上にも分国主として上西門院がいたのではないか。
 安元二年(一一七六)正月には知行国主平重盛のもとで越前守に通盛が、能登守には重盛の子忠房が補任されているが、その後、能登国では治承三年(一一七九)末の国守通盛をへて、翌年正月には知行国主平教盛のもとで子教経が国守に補任されている。重盛の知行国は平氏の知行国であるが、治承三年末以降の能登国は上西門院分国とすべきであろう。その後、寿永二年(一一八三)一二月には上西門院分国のもとで持明院基能が国守を務めている。
 以上、待賢門院流の分国をみたが、平氏知行国が増加する中で、上西門院の分国は独立性を維持して存続していたと言えよう。中でも能登国は継続して院の分国ではなかったか。

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