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2018年6月 4日 (月)

長野庄と保元の乱3

 卜部兼仲が石見国司であった大治四年(一一二九)から保延三年(一一三七)までの二期八年間に庄園の寄進・立券が行われた可能性は少なからずあるが、その場合でも最終的な長野庄とは異なる領域の限定されたものであり、且つ、兼仲は摂関家との関係も強く、待賢門院領であったかどうかは検討の余地がある。永治二年(一一四二)正月には近衛天皇の即位に伴い崇徳は上皇となり、久安元年(一一四六)八月には待賢門院が死亡した。さらに久安六年(一一五〇)九月には藤原忠実が氏長者を忠通から奪って頼長に与えている。
 前述のように氏長者となった頼長が兼仲・基仲兄弟に梅宮社務と宇多庄務を与えたのがこの時期である。また、久安二年正月には大和守から石見守に遷任して一年にしかならない源清忠に代えて、源国保が石見守となっているが、実は知行国主も忠通から忠実に交代している。国保は二〇才未満であり、父で忠実の側近であった源雅国が石見国務の実権を仁平三年(一一五三)末まで握っていた。元三泰雄氏によると大和国における忠通と興福寺の対立の背景にも忠実がからんでいた。
 石見国最大の庄園である長野庄が貞応二年石見国惣田数注文にみえる体制となったのは、この国保・雅国ならびに忠実・頼長が石見国衙の主導権を握った時期であったと思われる。飯多郷の長野庄惣政所の関係者が国頼入道、国久、源茂国、政国といずれも「国」の字をその名に付けている。本家はと問われれば、待賢門院の子崇徳上皇が有力である。そうであれば、保元の乱における崇徳・頼長の敗北が長野庄にも大きな影響を与え、長野庄が後白河院の後院領となり、後に崇徳の除霊が意識されるようになると、後白河院から粟田宮に寄進されたのではないか。崇徳との関係があった庄園として粟田宮に寄進されたのである。石見国知行国主は仁平四年(一一五四)に忠通に交替し、その側近で各地で庄園を寄進してきた源季兼が石見守となり保元三年(一一五八)末にこれも摂関家家司で学者である藤原永範が継承した。益田庄の立券は石見守源秀兼の時代であろう。
 以上、西田氏による新たな史料発掘を踏まえた論に刺激を受けてまとめてみたところである。兼仲とその一族についてはほとんど龍野氏の論文の成果に依拠している。待賢門院との関係と摂関家との関係の両方を踏まえる必要があろう。なお、兼仲の末裔と思われる人物が発給した文書は元応二年一二月一七日某袖判御教書(長府毛利家文書)その形式(袖判ではなく奥上判)が公卿発給文書と異なっており、兼仲が極めて有能な実務家であったことからすると、その立場は領家というよりは、領家の意向を実行する預所的なものではなかったか。また、梅宮社務としての兼仲・基仲兄弟の系図は残っているが、その中には仲遠はみえても仲広はみられない。

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