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2018年6月 8日 (金)

対馬守藤原親光

 『吾妻鏡』については、大学三年時に史料編纂所1Fで行われていた五味文彦氏による読書会(勤務先のお茶の水大学の学生とともに行う。その中の一人が当時国史学科助手であった某氏と結婚)に参加した際に読んだ程度で、その他の部分はなお拾い読みに留まっている。
 親光についても初めて認識したという状況だが、隠岐守で成勝寺領揖屋社の領家であった藤原資憲の子である。資憲本人は保元の乱後出家したが、その子基光(弟資長の養子となる)と俊光は上西門院に仕え(頼朝とは旧知ヵ)、娘は平忠盛の子教盛との間に通盛・教経・教子等をなしていた。平家一門ではあるが、池禅尼の子頼盛と同様、一門では独自性を有していた。教盛と男子は平家の都落ちに同行したが、教子は都に残り高倉天皇の遺児の養育に当たっていたが、その遺児が即位したのが後鳥羽天皇であり、教子の娘重子が後鳥羽との間に生んだのが順徳天皇であった。
 『吾妻鏡』元暦二年三月一三日条には、頼朝の外戚である対馬守親光は対馬に在住していたが、その上洛を平氏方が妨げる恐れがあるとして、西海・山陽道諸国の御家人に対して路次の煩いなく勘過させるよう命じている。また西国に派遣された頼朝の弟範頼が迎えの船を遣わしたところ、三月四日に平氏の攻撃を逃れるために高麗へ渡ってしまったという。そこで対馬国守護人河内五郎義長から三月末に平氏は滅亡し、帰国を求める書状を送っている。
 その後、親光は帰国し、関東へ来て御家人となるとともに、一旦は失った対馬守に復帰しているが、問題は親光が頼朝の外戚だと記されていることである。源氏中興の祖とされる源義家の室が日野有綱(資憲の父方の祖父有信と母方の祖父有定の兄弟)の娘であることが確認できるが、残念ながら資憲の室については情報がなく不明である。親光は平教盛とも義兄弟となるが、教盛自身も清盛とは一線を画していた。また親光は屋島へ参陣せよとの平氏からの軍勢催促に応じていなかった。頼朝は親光の対馬守復帰とともに、熊野別当領上総国畔蒜庄の地頭に親光を補任している。

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