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2018年6月11日 (月)

粟田宮社の社家

 元暦元年(一一八四)、後白河院は崇徳院の冥福を祈り怨念を鎮めるために、保元の乱の戦場であり、崇徳院の御所白河北殿の跡である春日河原に社殿を建立した。これが粟田宮社であるが、その俗別当を務めたのは卜部氏一族であった。吉田神道の祖とされるのは卜部兼延である。兼延は長保三年(一〇〇一)神祇大副となり、一条天皇から「兼」の一字を与えられ、その子孫に受け継がれていく。吉田社と平野社の社務に関わっていたが、その子兼忠はこれに加えて梅宮社にも関わりを持った。
 兼忠の子兼親は吉田社と梅宮社務を継承し、兼国が平野社を受け継いだ。次いで兼親の嫡子兼政が吉田社を、養子兼季が梅宮社を受け継いだ。兼季の孫が梅宮社務を掌握し、石見守に補任された兼仲である。その子孫も社務とともに北面として院に奉仕しつつ、国守を務めている。吉田社務を継承した兼政とその子孫も同様であった。これに対して、平野社務を掌握した兼国の子孫は、曾孫兼友が粟田宮俗別当に補任され、その嫡流兼衡以下が平野社務を相伝したのに対して、庶流の兼清以下は粟田宮社を継承した。
 延応元年(一二三九)九月三日某下文は、長野庄内黒谷郷に対して。関東下知状並びに六波羅施行状と社家政所御下文を守って、惣政所に付けてその沙汰を行うよう命じている。承久の乱の新恩地頭として黒谷郷に入部した菖蒲氏の所当の未進を粟田宮社が幕府に訴え、幕府が命令を出したのを受けて、粟田宮社から政所下文が出されたのを施行するものであった。奥上判の主は長野庄預所であろう。長野庄の成立に梅宮社務を司る卜部兼仲とその子孫が関わったことは西田氏の指摘する通りであるが、後白河院から寄進された粟田宮社の社務も卜部氏の関係者が執行していた。

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