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2018年6月17日 (日)

藤原朝方と能盛

 『玉葉』承安二年(一一七二)閏一二月七日条には、今夜小除目があるが、院の寵臣である近江守藤原実教を熟国に転じさせるためのものだと記され、その候補として花山院忠雅の知行国である信濃国と藤原朝方が知行国主であった出雲国等から選ばれるようだと記されている。実教は鳥羽院のもとで多くの知行国を与えられた藤原家成の晩年の子として久安三年(一一五〇)に生まれたが、父は仁平四年(一一五四)には四八才で死亡している。
 家教は一九才であった仁安三年(一一六八)に近江守に補任され、一二月承安二年当時二三才で、結果的には信濃守に遷任した。近江・信濃両国の知行国主は誰であろうか。「国司一覧」(『日本史総覧』と「知行国主・国司一覧」(『中世史ハンドブック』)には特に指摘されていないが、寵臣との記述からは後白河院の分国であった可能性が高い。ただし、『公卿補任』の実教の経歴をみても近江・信濃両国とも「院分」との記載は無い。そして信濃国は引き続き忠雅が知行国主で実教が国守であるとの解釈がなされている(『同』)が、両者の間には実教の姉妹が忠雅室という関係がある程度である。それまでの国守は忠雅の子隆雅で、その母は藤原家長(家成の兄)の娘であった。
  ともあれ、出雲国は依然として藤原朝方の知行国であったが、承安四年正月二一日の除目で大夫尉であった藤原能成(盛)が国守となり、朝方は「出雲被推替石見了」(玉葉)という形で、今回は子である国守朝定とともに石見国に遷任した。信濃国のような事情は一切不明であるが、能盛が後白河の側近として知られた人物であり、少なくとも知行国主(ないしは院分国主)なしに国守の初任として出雲守に補任されたとは考えにくい。朝方・朝定父子にとっては不本意な石見国への遷任であり、能盛が三年半で治承元年六月二八日に出雲守から周防守に遷任すると、朝方・朝定父子が出雲国に復活している。周防守の前任者は院の側近藤原季能(美福門院の分国で国守を務めた俊盛の子)で、遷任先の讃岐国とともに後白河院の分国であった。
  復帰した朝方・朝定父子のもとで杵築大社の仮殿造営が行われ、次いで正殿造営が開始されたため、養和元年(一一八一)三月六日に父子は重任して造営を続けたが、寿永二年閏一〇月二六日に朝定が死亡し、弟朝経が国守となり造営を完了して遷宮を行った。遷宮終了後も父子で知行国主と国守を留任していたが、建久八年一二月に朝経が死亡したため、一時期、朝経が務めていた出雲守と蔵人を藤原清長が代行したことについてはすでに述べた通りである

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