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2018年6月 6日 (水)

待賢門院領の伝領1

 遅ればせながら野口華世氏「待賢門院領の伝領」(『平安朝の女性と政治文化-宮廷・生活・ジェンダー』(二〇一七年三月)を読んだ。ネットで注文して四日目に入手した。これを確認してから、西田氏の論文について検討しようとも思ったが‥‥。
 野口氏は八条院領・宣陽門院領・室町院領と異なり待賢門院領・上西門院領の名が世代を超えて伝承されなかったのは何故かという課題を設定して、表題のテーマについて深めている。結論を言えば、待賢門院領は法金剛院領と円勝寺領が中心であったが(その外に庁分があったはず)、院の死後、院の仏事を行っている子の崇徳上皇が管理したが、保元の乱で崇徳が敗北したため、上西門院領となったものもあったが、没収されたり、領家が本家を変更して枠組みから離脱したものがあったことが述べられた。承久の乱の直後の宣陽門院領目録には待賢門院から上西門院と後白河院をへた所領区分はあっても、本来の法金剛院・円勝寺・庁分などの区分は一切記されていないのはそのためだとする。
 待賢門院の死から、後白河院の即位・院政開始や統子内親王の立后までには空白期間があり、崇徳上皇がその間の受け皿となったのはその通りであろう。崇徳上皇には待賢門院領以外に、御願寺である成勝寺領とともに、崇徳院庁分の庄園もあったはずである。長野庄について西田氏は母待賢門院から子である後白河院(母の死亡時一九才)に譲られたと述べたが、その可能性はほとんどないと思われる。
 知行国主藤原忠実、国守源国保(実権は父雅国)のもとで初めて立券がされた場合、摂関家領になる可能性が高いが、石見守卜部兼仲が仲介した私領の庄園化を前提として、石見国最大の長野庄が成立したとすれば、崇徳上皇領となることは想定可能である。待賢門院が卜部兼仲に河内国宇多庄を与えるよう遺言していたように、兼仲は待賢門院を介して崇徳との関係を有していたと思われる。
 兼仲は藤原頼長との関係も有していたが、こちらは個人対個人の関係というよりも、氏長者としての頼長との関係であり、頼長が没落すれば氏長者に返り咲いた忠通との関係を構築できたであろう。

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