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2018年6月 9日 (土)

一二世紀前半の石見国司1

 天養二年に石見国が藤原忠通の知行国となる以前の状況をまとめる。
 永久元年(一一一三)一〇月に謀反を鎮圧した功により検非違使藤原盛重が石見守に補任されている。その兄弟定仲もまた天仁二年(一一〇九)八月二四日に「石見前司定仲」とみえ、石見守経験者であった。定仲は藤原忠実の家司であり、摂関家との関係で石見守となったと思われる。ところが承徳三年(一〇九九)六月に関白藤原師通が三八才で死亡した時点で、後継者忠実は二二才にすぎず、続いて嘉承二年(一一〇七)七月には堀河天皇が二九才で早世したことにより、天仁元年正月の除目は幼少の孫である鳥羽天皇を後見する白河院の主導のもと行われた。
 盛重は定仲とは異なり白河院との関係で石見守に補任された。永久四年には東大寺大仏殿四面廻廊の修理を行うことで重任し、保安元年(一一二〇)一二月二四日に相模守に遷任するまで七年間務めた。元永二年(一一一九)九月二七日の鳥羽法皇の熊野御幸では、つき従う北面下臈として「備中守平正盛」とともに「石見守盛重」がみえている。まさに盛重は武士として平正盛の後を追う人物で、これを契機にその子孫も院北面とともに西国国司を務めていくことになる。
 盛重に続いて石見守に補任された藤原資盛は藤原南家資俊の子である。白河院の北面の武士として、その葬儀の参加者にもみえている。保安四年(一一二二)初から大治三年(一一二八)末まで六年間石見守を務めた。大治二年三月七日には法勝寺薬師堂で仏供養が行われたが、薬師堂の南面に安置された丈六の六字明王七体は資盛の功として造られたものであった。次いで大治四年初に同じ南家の藤原尹経と交替する形で安芸守に遷任した。資盛は崇徳院御厨子所預であったと系図に記されるが、蔵人所のもとで天皇の供御関係のことを弁ずる経済的ポストであった。このように資盛は北面の武士ではあるが、その本質は文士であったと思われる。

 資盛の後任尹経は信西入道の従兄弟で、その一族の中には父尹通のように検非違使に補任されたものもいるが、祖父季綱は大学頭、兄知通は東宮学士と、武士というよりも文士の家系であった。尹通は文章得業生から六位蔵人に進み、永久四年(一一一六)一〇月一三日勤学会所廻文には後の石見守藤原永範の父「文章博士」(永実)とともに「安芸守」としてみえている(朝野群載)。天永二年(一一一一)から永久五年にかけて安芸守に現任していたことが確認できるが、永久元年一二月と永久五年二月には白河法皇が尹通の鳥羽南第を方違のため訪れた記事が確認できるように、白河との間に密接な関係を有していた。

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