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2018年6月28日 (木)

院司と摂関家家司

 久安四年(一一四八)一〇月二五・二六日に藤原忠実が白河殿以下を訪れた際の記録が残っている。(仙洞御移徙部類記)その前後の二四日には鳥羽法皇が、二七日には法皇と崇徳上皇も白河殿と法勝寺を訪れ、関係する公卿と殿上人が参集したとする。ただしその具体的人名は不明であるが、これに対して忠実の訪問については家司の平信範が詳細に記録している(『兵範記』そのものの当該時期のものは残っていないが、仙洞御移徙部類記に関係部分が収録され残った)。
  二五日の渡御に参集した院司(殿上人)は藤原家長・顕親・朝隆・雅国・信範であり、院司と忠実の家司を兼ねていた人物である。仁平二年三月のメンバーと共通するが、資憲のみみえない。二六日にはより詳細な記録が残されており、公卿として子である内大臣頼長と権中納言藤原季成・宰相中将花山院忠雅・参議藤原経定・参議藤原教長が騎馬で前駆し、後を固めたのが検非違使源為義であった。殿上人で具体的名前が記されているのは院司美作守藤原家長・右京権大夫藤原顕親と院の判官代平信範と高階重範である。白河殿での饗宴には公卿として前述以外に、権大納言左大将源雅定・権大納言藤原宗輔・権中納言皇太后宮大夫宗能・権中納言左衛門督公教・権中納言左兵衛督重通・参議藤原清隆・修理大夫忠能・大蔵卿藤原忠隆、殿上人では左近衛中将源成雅・女院蔵人実重・侍従源師盛・同某□家・源師国(師盛の兄弟)がみえる。
 忠実は白河法皇が死亡した大治四年(一一二九)には五二才で政界に復帰し、崇徳天皇から内覧の宣旨を得ていた。公卿の供奉者には藤原忠雅・宗輔・宗能・教長といった忠実・頼長父子と密接な関係を有する人物もみえるが、実質的には子である忠通を抑えて公卿のトップである忠実の地位を反映したものであった。これに対して殿上人の供奉者はいずれも忠実並びに摂関家との密接な関係を有する人物であった。院司としての立場と摂関家家司は排他的ではなく共存可能なものであった。
 この作業をする中で関係者の生年を再確認したが、久安四年の時点で鳥羽院四六才、崇徳院三〇才、忠実七一才、忠通五二才、頼長二九才、美福門院三二才、近衛一〇才、重仁九才であった。故人であるが白河と待賢門院の年齢差は四八もあり、後者が崇徳を産んだ時点で前者は六五才を越えており、それこそ現代医学の力を借りなければ、両者の間の子は存在しえないことを痛感した。

 

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