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2018年6月 2日 (土)

待賢門院関係者の分国

 待賢門院そのものの分国については明証を欠いており、わずかに五味文彦氏が可能性のあるものとして康治二年から久安元年にかけて源光隆が国守であった安芸国を挙げている程度である。ここでは、さらにおおざっぱであるが、その関係者が国守であった事例をあげて、分析を加えて見たい。期間は永久六年(一一一八)の立后から院が死亡する久安元年(一一四五)八月二二日までを原則とする。
 加賀国は元永二年(一一一九)一二月二九日以降、院の同母兄徳大寺実能が国守であったが、園城寺焼失のためその造営料となり、旦那である西園寺通季が同年閏四月一一日に知行国主となり、造営にあたった。国守は弟季成であった。通季は待賢門院の同母兄で、季成は異母弟であった。
 次いで大治元年二月二六日には藤原季兼が能登守に補任された。季兼は備中守で待賢門院別当であった敦兼の子であったが、その弟季行がこの時点で一三才であり、季兼もまだ一〇代であったと思われ、待賢門院の分国であった可能性がある。季行は大治五年(一一三〇)に一七才で阿波守に補任されている。続いて長承二年(一一三三)五月六日には二〇才の季行と季兼が能登守と阿波守を交替している。これも院分国ではないか。
 季行は続いて保延六年(一一四〇)~康治元年(一一四二)末まで因幡守を務めている。大治三年からの藤原通基、長承三年からの西園寺通季の嫡子公通も待賢門院関係者である。通基は待賢門院官女で上西門院の乳母となった女性を室としている。これに続くのが五味氏が指摘した源光隆で、二〇才であった康治二年~翌年にかけて安芸守に補任された。また康治二年から久安五年にかけては藤原季兼が上総介(親王任国で実質的は守)に、康治元年から久安三年にかけては通基の嫡子通重が能登守に補任されている。
 大治二年正月には西園寺公通が丹波国守に補任されているが、五味氏はこれを公通を娘婿とする藤原長実の知行国とされた。前述の因幡国の場合は長実死亡後である。保延元年には藤原通基が丹波国守に補任されている。
 久安元年に待賢門院が死亡したが、上総と能登の場合、影響を受けていないので、厳密な意味での待賢門院分国とはいえないが、広い意味での関係者の分国であるとは言えるのではないか。その院領所領を継承した上西門院は大治元年八月、生後すぐに内親王宣下をうけ、翌二年四月には准三后に除されており、受け皿がないわけではない。ただし、院号宣下は保元四年である。
追加:大治四年から保延三年まで卜部兼仲が国守であった石見国は待賢門院の分国ではないか。和泉国についても国守藤原宗長が石見守兼仲と交替しており、また和泉守の前任者は父宗兼であり、院分国であった可能性がある。さらに宗長は下野守にも補任されているが、その前任者は崇徳の近臣藤原資憲であり、これも分国ではなかったか。

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